第3章  労働組合運動、地域運動と結合した地労委民主化闘争など反「合」権闘争、神奈川総行動

1.東京ではじまった総行動

東京では個別の争議がまとまって東京争議団共闘会議が結成され、争議支援、職場要求実現の運動が展開され、それは「総行動」として発展し、資本から分断されつつあった職場からの労働戦線を統一させる「攻勢的統一路線」として、全国的に発展しはじめていました。

首都東京には、東京争議団を中心に、争議支援行動が展開され、神奈川争議団が前進する以前から、総行動方式が取り組まれ、次々と争議を勝利解決させていました。労働組合運動でも総評、同盟を問わず職場からの統一を掲げて資本との闘う戦線を拡大強化する方向が取り組まれていました。

 しかし、首都東京の覇権主義が頭をもたげ、関東地方や全国にも東京の方式を押し付けようとする動きが顕著になりました。

2.「神奈川総行動」、「地域総行動」が地域の要求と結合して新たな運動の飛躍

こうした流れの中で、神奈川でも神奈川争議団共闘会議が再建されて反「合」権利闘争が積極的に取り組まれはじめました。この運動は争議団・争議組合、闘う弁護団、闘う労働者・労働組合が一緒になって運動を展開し、争議については「守る会」、「支援する会」、「支援共闘会議」、「支援対策会議」などの組織が作られ、そこにそれぞれが参加して資本の攻撃と闘いました。

資本と闘うにあたっては、地方労働委員会の民主化、裁判所の民主化(司法の反動化阻止)、大企業の横暴を規制し、職場に自由と民主主義を確立する運動、国や地方自治体に対する要求実現の運動などと結合して、総合的な運動として「神奈川総行動」、「地域総行動」として取り組まれ、それは労働戦線の階級的統一をめざす神奈川労連、地域労連の運動との連携で行われたのが、神奈川の特徴でした。(図 総行動10年間の行動数 参照)

この運動の中で、労働者・市民の運動は活性化し、地域労連・地域民主団体の要求と争議団・争議組合の要求が共同で取り組まれ、大規模な一斉駅頭宣伝に続く、各企業・自治体などへの要請行動が行われ、1998年春の総行動では、県内一斉駅頭宣伝は222駅頭、統一行動個所数が462か所にも及び、地域労連・地域組織の運動は活性化し、それは組織の拡大につながり、また地方選、国政選挙での前進(参院選挙区での共産党議員の当選など)へと発展しました。

神奈川の総行動の特徴はなんと言ってもそれが従来の「上からの運動」ではなく、「下からの運動」であった点です。先にも述べましたが、地域の要求、職場の要求を地域の団体や個人、職場の個人や労働組合が持ちより、その要求を整理し、要求実現のために地域の自治体や国の出先機関、企業や企業の営業所、支店、工場などにその要求を提出したのです。まさに自分の要求が身近なところで解決させていくという運動になりました。また、この要求実現の取り組みの中で、同じ地域での要求実現の共同闘争も発展したのでした。

  

総行動10年間の大きな成果

 

3.地労委民主化・反「合」権利闘争の取り組み

神奈川の自主的主体的な反「合」権利闘争、争議団運動は前進し、1980年代には東京にも劣らない勢いとなり、成果もあげていきました。

同時に前進を続ける神奈川の反「合」権利闘争をつぶすための経営法曹などの会議ももたれ、大企業職場の争議解決事例の研究も行われました。

神奈川ではこうした資本側の秘密裏の研究だけでなく、右翼や警察権力による露骨な挑発と介入が行われました。(ヤシカ相模原への暴力団の介入、武松商事事件での右翼:先鋭戦線共闘会議の介入、座間の都南自動車教習所組合事務所への警察権力の強制捜査など)。

労働者の権利を拡大する取り組みでは裁判所の反動化(司法の反動化)阻止の取り組みとともに、神奈川地労委の民主化の取り組みが行われ、神奈川地労委に対する「要求」「要望」書の提出による民主化運動が展開されました。

 @総評弁護団が1973年9月、全国の地労委民主化のため、10大要求を決めた

 Aこれに応えて、神奈川では同月「神奈川地労委対策会議」が結成され、「9大要求」をまとめ、神奈川地労委への申し入れを行った。

 B神奈川地労委民主化対策連絡会議の結成(1990年8月31日)と「要望書」(第1次)の提出

 C同 第2次「要望書」の提出 1998年 月

 D同 第3次「要望書」の提出 2000年8月

   

この運動では次のような成果があげられました。

地労委での勝利命令の飛躍的前進

 1990年から2000年7月までの間、神奈川地労委ではそれまで敗訴が多かった地労委命令が逆転し、90年12月26日リーダー電子斉藤さんへの差別で、勝利和解したのをはじめ、00年7月25日にはJMIU日本シャッター解雇事件が神奈川地労委で職場復帰の和解を実現するなど、90年12月26日から00年7月25日までに43件の勝利和解、勝利命令、緊急命令を勝ち取りました。

提出書類部数を大幅に削減、実効確保の措置勧告の実現

 地労委に提訴すると提出書類が、公益委員、労働者委員、使用者委員や相手方などの分も含め10部以上も提出しなければならなかったのですが、これを5部に減らしたり、それまで名ばかりになっていた実効確保の措置勧告を実際の事件で多く出させるようになりました。

  審問期日の入れ方で、それまで、地労委公益委員や弁護士の都合で決められていた審問日や時間が、職場で働く人の立場から、午後に審問を入れるなどの働く原告の立場での審問日、審問時間が設定されるようになりました。

B 地労委労働者委員任命闘争と参与拒否闘争

  連合推薦者だけの労働者委員任命に反対し、もう一つのローカルセンターである神奈川労連からも労働者委員を任命するよう改選期には必ず候補者を立てて、県知事あてに任命闘争を行い、同時に地労委民主化の要望もおこなって民主化闘争を前進させた。また、労働者委員の手当だけを受け取り審問を行わない労働者委員や、労働者救済の立場を放棄した労働者委員には、審問での参与を拒否する取り組みもおこないました。

C審問傍聴の制限を無くさせた。

傍聴者が多数の時は傍聴席を増加させるなどが行われるようになり、自由闊達な労働委員会審問が行われる成果をあげました。

 

4.大企業争議の前進を阻む攻撃も激化

その一方で、労働者・労働組合、弁護士、争議団・争議組合の間に分裂が画策され、神奈川地労委では、解決金の配分を労組が支配したり、横取りしたかのような報告が「神奈川地労委の20年」に掲載されるなど、分断攻撃が強まっていました。

全労連が結成され、暫くたつと全労連の一部幹部も大企業争議を「全労連のイニシアチブで解決する力量が出来てきた、ナショナルセンターとして大企業争議を取り組む」と言い出し、実態を無視した権威主義が現れてきました。

全労連や東京の一部労働組合幹部、一部弁護士、一部争議団なども、覇権主義、大国主義、などから神奈川の反「合」権利闘争への攻撃を行いました。

 

こうした状況を察知した資本は、神奈川の反「合」権利闘争と全体の反「合」権利闘争を分断するために、日立争議をつかって分断の策略をめぐらせてきました。そして、日立資本が、日立争議の全面一括解決を全労連にひそかに依頼したのです。全労連はこれをひた隠しにし、最後まで明らかにしませんでしたが、労働運動誌にのった大木一訓という学者が、座談会で話し、これを労働運動誌が公表してしまい、明らかになってしまったのです。(日立神奈川争議総括参照)

  




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