第6章 神奈川労連の分裂・組織介入攻撃の実態

 1.全労連と神奈川労連の結成は歴史的な進歩であったのか

 1989年11月21日に全労連が結成され、翌1990年1月13日に神奈川労連が結成されました。「歴史に学び、歴史をつくる」はずであった神奈川労連は、総評でさえ行わなかった闘う争議団を分裂させるという大きな歴史的誤りをおかしました。

 そして神奈川労連は、運動を分裂させただけでなく、その一方を支援するという二重の誤りをおかし、さらに日本共産党と一体となって行ったというところに本質的な大きな誤りがあります。

 その上に、党と神奈川労連の誤りを指摘し正しい運動の発展を求めた人たちとその運動を、不当な介入で弾圧したことは、「歴史に学ぶ」どころか必然的に発展すべき労働運動の歯車を大きく後退させ、歴史に逆行したものだといえます。

2.日本共産党神奈川県委員会と一体となっての介入

 2000年11月8日に日本共産党神奈川県委員会総会で口頭提案され決定したといわれる「争議をめぐるいくつかの誤りとそれを克服する正しい指導方向について」が発表される以前から、県内の争議運動をめぐって事実を無視した攻撃・介入が神奈川労連と日本共産党から行われており、特に日立争議においてはそれが露骨に現れました。2003年12月23日に発表された「日立神奈川争議総括集」では、「たたかいの中で起きた様々な問題と不当介入」および「日立の争議はなぜ一括解決できなかったのか」の項で、その一端を紹介しています。

 ここで明らかになったことは常に、神奈川労連と日本共産党神奈川県委員会が密接に連絡を取り合っていたことです。このことは、神奈川労連の結成に際する人事等までも共産党県委員会と相談して決めたことと同様に、日立争議に対する介入の方法も綿密に打ち合わせをしていたということです。

 県委員会の建物から、日立争議団を後から抜けていく宮崎・中村両名、そして、県委員会方向から神奈川労連高橋議長、菊谷事務局長が歩いてくるのを目撃され狼狽する姿がそれを端的にあらわしています。

 2001年5月9日神奈川労連は、第14回幹事会で日立神奈川争議支援共闘会議が神奈川労連に対して誹謗中傷を行っているとして支援共闘会議からの離脱を決議しました。これを契機に一部の単産・地域労連が日立神奈川争議を支援しないことを決議しました。

神奈川労連は、神奈川労連の「指導方向」が無視されたとして4点の理由を挙げていますが、これはまさしく県委員会決定を受けての「指導方向」の押しつけであり、日立神奈川支援共闘会議ではただちにこれらの理由の根拠がないことを明らかにしています。

3.リストラに反対する闘いにまでも妨害介入
社会問題となっているリストラなど大企業の横暴問題を地域に訴えていくために、連合職場連絡会や神奈川争議団、日立神奈川支援共闘会議は「大企業の横暴を規制する連絡会」を結成させる準備をし、神奈川労連にも呼びかけをして参加してもらうことにしていました。

 1999年2月14日、神奈川労連との話し合いでは、高橋議長、菊谷事務局長も参加をし、「予定どおり2月17日に連絡会を結成すること、労連は機関会議での承認手続きが必要なので遅れて参加する、そのため結成時には連絡会役員を決めずに労連参加後に決めることにする」などを確認しました。

 しかし、神奈川労連は、突如、2月23日の労連幹事会で労連主導の別組織を提案し、リストラ問題はそこで取り組むと言いだしました。

 また、日本共産党神奈川県委員会は、連合職場連絡会や神奈川争議団、日立支援共闘会議の中心となっている党員を呼びだし、県委員会として「民主的な討議を経たものではないとしながらも、県委員会は指導方針として、大企業の横暴を規制する連絡会での活動は認めない」と伝えてきました。

 大企業の横暴と闘うための大衆的自主的な運動と組織を潰すために、党と神奈川労連が一体となって妨害介入をしてきたと言えます。

4.総行動の変質

 神奈川労連は、その「結成宣言」で神奈川を「独占大企業の生産と研究開発の拠点」と位置づけ、職場・地域から「大企業の社会的責任」を求める運動を呼びかけました。この呼びかけは、大企業の中で不屈に闘っていた労働者や下請け中小の労働者にも共感を呼び、県下各地で同時に展開する総行動として大きく発展しました。
 神奈川争議団に結集する仲間が、自らの闘いと総行動を重ねて取り組み積極的に地域オルグを展開したことは、地域労連の結成発展にも大きく寄与しました。
 しかし、「争議団中心の運動では地域がついていけない」との口実から総行動を変質させる動きが、上記の共産党県委員会の「2000年11月8日決定」を受けて一層強まります。
 2001年10月24日の争議支援秋の神奈川総行動で、自治体要請を行う日立争議団支援共闘の要請書に総行動実行委員会の押印を神奈川労連が拒否しました。このことは、各団体の共同行動であるはずの総行動実行委員会を神奈川労連が支配している実態をも明らかにしました。
 2002年秋の争議支援神奈川総行動は神奈川労連による、東芝争議団の内部問題や支援共闘結成問題を理由に取り組まれませんでした。
 2002年10月25日神奈川労連が神奈川争議団を排除して秋の総行動を実施しました。
 神奈川の総行動は、労働組合だけの枠にとどまらず、各団体をはじめ地域や産別の労働組合も自主的に行動を配置するなど地域運動の発展にも大きく寄与しましたが、これを境に中身が大きく変質されていきます。
 産別の労働組合は、産別の全国行動とは別に総行動の日に独自の要求を地域に持ち込み地域とともに共同行動を広げていたものが、産別枠内の総行動となり「自らの要求実現と地域運動発展の統一」という視点が欠落してしまったといえるでしょう。 

 

5.日立に続き東芝でも不当な介入

 日立では、日本共産党神奈川県委員会からの執拗な妨害にも屈せず、神奈川労連からの不当な介入にも、支援共闘会議が毅然と反論し闘いぬきました。しかし、神奈川労連は、東芝でもこの二の舞は許さないとして、分裂策動を行い支援共闘会議つくりを妨害しました。(介入妨害の詳細は第8章を参照のこと)
 当事者の提案した支援共闘の人事に反対し、「神奈川労連が、議長か事務局長にならない限り結成に反対」と表明。そのとおりにならないからと言って、争議団を分裂させ、神奈川労連の意に沿わない団体を排除したうえで、東芝争議団の自主性の否定と団破壊を目的にした分裂支援共闘を一方的に結成しました。

6.神奈川地労委民主化対策連絡会議でも

 地労委民主化対策連絡会議に対しても2000年9月27日神奈川労連第2回幹事会で、事実に反する内容の報告がされ表面化し、2002年1月12日事実上神奈川労連は離脱をしました。
 2001年8月22日の神奈川労連第21回幹事会で決めた方針の骨子は、「早く総会を開け、事務局長は神奈川労連に戻せ、さもなくば神奈川労連は連絡会議から離脱し、連絡会議に代わって地労委民主化闘争を独自に行う」というものでした。
 2002年2月4日「地労委民主化対策会議担当者会議」を開催し、同年9月8日第18回定期大会で地労委民主化運動を連絡会議と別に独自に取り組むことを決定し分裂行動が具体的に行われました。
 2001年5月23日神奈川労連第16回幹事会で、反合定期協議の場から地労委民主化対策連絡会議と「連合」職場連絡会議を外す方針を決定しました。2002年7月22日の定期協議(10ヶ月ぶり)が最後の定期協議となりました。

7.その後も変質を続ける神奈川労連

 2003年1月18日神奈川労連が幹事会で神奈川争議団の2.14共同行動の申し入れ拒否を決定しました。
 2003年1月24日神奈川労連菊谷議長名で、日立争議団脱退者宮崎氏による日立神奈川支援共闘会議と日立神奈川争議団を誹謗する文書を配布しました。
 2003年2月1日神奈川労連は宮崎氏の報告集会を事実上共催しました。
 2003年3月27日「東芝を明るくする会」の金子氏が定年4日前に地労委に神奈川労連などの支援を受け差別是正の申し立てを行い、東芝争議の分裂を行い、神奈川労連の言うことを聞く争議団を強引に作り上げました。
 2003年9月9日神奈川労連が「五者連」からの脱退を議長名で送付しました。
 2003年9月9日神奈川労連が地労委民主化対策会議から脱退しました。
 県内の民主的な大衆運動に対して、神奈川労連は日本共産党とともに露骨な介入を繰り返し、民主的運動の発展を妨害してきましたが、その特徴は、神奈川労連の考え方を押し付けるだけでなく、役員の中心ポストに座らせろということでありました。
 そして、神奈川労連の方針が受け入れられず中心ポストが取れなければ、別組織を作ってまでも運動を分断させるということでした。
 リストラに反対する運動、地労委民主化運動、争議団を支援する運動など、ことごとく気に入らなければ分裂させ別組織を立ち上げようとしました。こうした独善的な行動による不当な介入がなければ、それぞれの運動は、より発展したに相違ありません。
 こうした一連の経過をながめた時、政党と労働組合の組織原則であるはずの「一致する要求での共同行動」が「一致する要求での共同介入」へと変質されてしまったことを嘆かざるを得ません。
 神奈川の反合権利闘争への介入の誤りを率直に認め自己批判し、方針を撤回すること。神奈川労連が政党の下部機関のように動くのではなく、真に政党から独立して、労働者とともに悩み行動していかない限り今後の発展は望めないでしょう。



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