第8章 個別争議への分裂・組織破壊攻撃
(1)東電闘争の性格
1960年代は独占大企業の合理化攻撃と、労働組合の御用化・右傾化がはげしく行われ、大企業に「反共インフォーマル組織」が次々と結成され、職場活動家の解雇、差別、職場八分の攻撃が激しくなりました。
1970年代に入ると大企業職場における人権侵害や差別を告発する闘いが活発になってきた。神奈川では73年には日本鋼管京浜製鉄の活動家、日産厚木の活動家、小田急電鉄の活動家が人権裁判に立ち上がりました。
1974年には経営支部組織の「公然化」の方針化が準備され、自前で工場門前での政策・要求ビラ宣伝が提起され組織されていきました。
1974年6月、「三つの自由」(@生存の自由A市民的政治的自由B民族の自由)が提
起され、党内外の論議を経て内容を発展させてそれを集約し、1976年第13回臨時党
大会で「自由と民主主義の宣言」が採択され、「職場の自由10ヶ条」も大々的に発表され
ました。
1976年には東京電力の人権裁判が開始されましたが、この背景には前記の共産党の「公然化」の方針と鶴見火力発電所で生じた山本解雇争議が勝利解決し職場に復帰する闘いが影響していました。
東電闘争は一都五県(東京、神奈川、千葉、群馬、長野、茨城)に亘る争議で有り、共産党員に対する思想差別として闘われた関係から、日本共産党の指導の下に準備され、闘いが組織されて行きました。
従って東電闘争は支援共闘会議が結成されるまでは主として共産党の指導に基づいて運動が展開されて来ました。
(2)日本共産党中央委員会への意見書の提出
東京電力差別撤廃の副団長が日本共産党中央委員会に1991年08月19日90年10月に続いて意見書を提出した。
内容は東電争議全面勝利解決のための支援共闘中央連絡会議が結成されたが、東京の原告はこれに反対し、別に「中央支援共闘会議を結成する動きを具体化している、これをやめさせるための指導を行ってもらいたい」との意見書を提出しました。
副団長が宮本顕治議長個人宛の意見を1992年07月文書で提出した。
第十六回総会を開催しますが、総会方針討議の中で基本的な点で反対の方針が東京原告団から提出され、総会を直前にして困っている。又、原告団役員人事についても、この場に来て問題を提起して来た。 |
しかし、この申し入れに対する回答はありませんでした
(4)日本共産党志位書記局長の突然の東電本店訪問(1995年06月)
前橋、甲府、長野地裁に続き、千葉地裁で4度目の原告勝利判決を勝ち取った1994年5月23日から2週間後の6月10日、日本共産党志位書記局長と正森・吉井・吉川衆参国会議員が、東電本店を訪ねました。東電本店は、星野副社長(労務担当)、平井取締役(労務・人事担当)山本総務部長、田村労務部長、中島人事部長が対応し、翌日の赤旗は、写真入りでこれを大きく報道しました。
この共産党の行動は、原告団はまったく知らない中で進められていました。6月1日の第14回本店交渉のなかで、会社側から「志位書記局長がこちらにこられることになったとのことですが、ご存じですか。」「そちらの吉井議員から通産省を通じて話がセットされたようです。」と聞かされました。
当日の交渉は、4度目の判決でも公式な解決交渉に入ることを拒む会社側を「今が決断する時期だ」と常任交渉団が厳しく追及していた中で出てきた話でした。
原告団は、共産党の東電訪問の真意を測りかね、国会議員団事務所に連絡を取り、団長、副団長、事務局長の3人は、6月7日、吉川春子議員秘書と面会しました。
3人は「東電争議は三連続裁判勝利を勝ち取り、横浜判決を控え、会社との交渉の中で解決を決断し、解決本交渉に入るよう詰めをしています。志位さんは、どんな要請に行くのでしょうか」と問いただしました。
吉川春子議員秘書から「争議解決の要請だ」との返事にびっくり。「今は、のるかそるかの大事な時期です。会社に解決交渉に入ることを言明させる時期をめぐって攻防のさなか、当事者の意向も聞かず、行動するのは止めてほしい」と述べ、話し合いの結果、9日に関係議員と面会することになりました。
6月9日夜、再度、原告団3人で国会議員団事務所に出向き、正森成二・吉井英勝・吉川春子衆参国会議員と面会しました。
そして、再度、原告団の考えを述べました。ところが吉川議員は、それを聞いて、ソファーから瞬間腰を浮かしたのがわかりました。正森議員は、東電裁判に関する書類が入った風呂敷包みを開けながら「志位さんの選挙区は千葉県でしょう。千葉判決が出た直後です。わかるでしょう。選挙も抱え、大事な行動です。」
原告団は、激しく抗議しました。「あなた方が、争議解決に責任を持ってくれるのですか。解決交渉にむけて前進している交渉が壊れたら責任を持ちますか」「争議を選挙に利用するは止めてほしい」などこもごも原告団の考えを述べました。
「原告当事者にいちいち言う必要はない、党中央の独自行動だ」と開き直った正森議員は、「こちらにはこちらの都合や理由がある」として東電本店申し入れを正当化し厳しい話しあいになりました。
そして話し合いはまとまり、「明日の要請は、党として一般的に争議解決を要請する。」「今後、このような行動をする場合は、事前に原告団と充分調整を取って行う」ことを確認しました。
(5)日本共産党「宮本議長の赤旗96年1月元旦号インタビュー発言」をめぐって
赤旗新聞1996年1月元旦号の新春インタビューで、宮本議長は関西電力の思想差別事件での最高裁勝利判決を突然とりあげて、これを過大に評価すると同時にこの判決が東電闘争の解決の力になったと事実と異なる評価を行いました。
96年1月6日(月)原告団事務局長は、グラフ「こんにちは」石井記者との打ち合せを神田神保町の原告団事務所で行いました。
原告団事務局長が、石井記者に「元旦号のインタビューは不可解だね。私は、関電最高裁判決が東電争議解決の力になったとは考えていません。関電最高裁判決前に会社とは解決に向けて大筋合意がされていました。
判決が強調されすぎているように思います。判決を始め社会的力で争議を解決して、労働現場が改善されることが大事だ、生きた闘いは判決をどう活用するかがカギだ。」「中央の人に会ったら、言っておいてよ」と話しました。
すぐ共産党中央委員会から原告団事務所に連絡があり、日程調整して1月中旬に団長と事務局長が共産党中央委員会事務所に出向きました。
責任者の犬飼氏に、「関電最高裁判決が東電争議解決に力になったとの発言は、事実に反
する。95年8月20日には原告団は、会社との解決の大筋合意をしていた。関電最高裁判決は、9月5日ですよ。」「どの部署の誰が宮本議長にこのようなレクチャーをしたのですか。」とただした。
ところが、犬飼氏は、おもむろにコピーされた9月6日付け「赤旗」の切り抜きを示し、「二瓶団長談話での解決の大きな励まし、力になると書いているではないですか」の答えが返ってきました。
二人は「中央委員会は東電争議の状況は逐一知っているはずです。談話は対外的に話す
このように党中央の指導に対し様々な意見を述べ、宮本議長に直接手紙を出すなどする東電争議団に対して党中央は大きな偏見を持っていたと考えられます。
これらのことから1996年元旦の恒例となった新春インタビューで、関西電力の思想差別事件での勝利判決を突然とりあげて、これを過大に評価し、東電の思想差別争議が、1995年12月25日に全面解決し、資本の反共労務政策に完膚無き打撃を与え大きな前進を勝ち取った運動と意義をこの関電判決に埋没させ評価を押し下げさせたのです。
これらの流れを見ると東電闘争が党中央に対し直接意見を述べ、指導の改善を迫られる中で、中央の権威が崩壊することを恐れ、東電闘争の評価に消極的になると同時にこれらの運動体を潰す方向になっていったものと思われます。
(6)神奈川電力労働者会館の建設とその意義
東電闘争の勝利は、自由と民主主義を大企業のなかにしっかりと定着させ、思想・信条による差別のない、自由でのびのびとした人間関係をつくるうえでの基礎を打ちたてました。
そしてこの勝利は反合権利闘争の前進、さらにはわが国の民主主義の前進と発展に役立つと同時に職場の労働者にかけられる、リストラ・合理化をおしとどめ、職場の要求を実現するための闘いの前進に寄与するものです。
元神奈川原告団の大部分は引き続き東電闘争の解決に大きな力となった地域の闘いや県内各争議の支援、連合職場の運動など、職場内外の運動を正しく位置付け、その発展のために努力することを確認しあい、活動の拠点としての会館の建設を決め、長い間東電闘争を支援していただいた多くの方や、困難な闘いを続けている争議団などに活用してもらうことで、これまでの支援に報いていこうと決意しました。
1998年1月に、現在の電力労働者会館が建っている場所に土地が見つかり、それ以降、会館建設プロジェクトチームを電力連絡会内に設けて、旧神奈川支援共闘会議や支援のみなさんと相談しながら具体的な準備を始めました。会館の建設は電力連絡会の総会で承認され、1998年12月23日に盛大に竣工式を行い現在に至っています。
この会館は「明るく働ける職場をめざす神奈川の電力連絡会」の活動の拠点として活用されると同時に神奈川の争議運動では、神奈川争議団共闘会議・横浜争議団共闘会議の結集場所として活用され、神奈川の反合権利闘争の前進に大きく寄与しています。また神奈川日立争議団の事務所としても活用され、日立神奈川争議解決の拠点の役割を担ってきました。また、東芝差別争議の拠点としても活用されてきました。
特に東電闘争解決の頃から資本の巻き返しが強化され、さまざまな困難が神奈川争議団共闘会議やそれに結集している争議団に降りかかってきている厳しい情勢の中で、電力会館はたくましくその存在価値を高めてきました。
(7)電力連絡会に対する陰湿な攻撃
00.11.16 日に北東地区委員会が千代田化工3氏に3ヶ月の権利停止を命ずるという異常な事態が発生し、それに続いて神奈川の反合権闘争について北東委員会で県委決定の報告会が行われました。
2:日立神奈川争議団・支援共闘・全労連神奈川労連をめぐる対立。 ・支援共闘から脱退がある。 3:神奈川労連と連合職場連絡会をめぐる対決。
対策 1:支援共闘は大衆組織・地区委員会が関与正しくない・内部で団結の方向で論議をする。 2:連合職場連絡会・発展的解消を・地区委員会は全面に出られない・内部で解消をする。 3:争議団・支部:職場の支部が争議団を指導する。 4:支部の不団結・日立秦野・千代田。・・労連と日立神奈川の不団結。 5:荒堀・犬飼をリ−ダ−に一定の方向性が出された。 |
以上のような口頭報告があり、資料は配布されましたがすべて引き上げられてしまいました。
この報告内容は党中央の承認を得て行ったものであることが明らかとなりました。なぜならば荒堀・犬飼の両名は共産党中央委員で荒堀は労働運動の責任者でもありました。この両名がリーダーとなって一定の方向が出されたと述べているからです。
またこの報告では神奈川争議団・支援共闘会議が大衆組織であるため、党が直接関与出来ないため、そこに参加している党員が自主的に内部で組織潰しや解消する活動をするよう求めると同時に党支部が争議団を指導して党の方針で活動するよう指示しています。
この様な情況の中で2000.03.16日電力関係党支部・関係党員会議が県委員会の会議室で行われましたが、会議の招集方法(支部を通さず直接招集)や内容について質問意見が続出し、会議不能となり改めて招集することになりました。
そして2001.03.30日に神奈川電力連絡会関係党員会議が開催されましたが、県委員会は会議目的も示さず開始され、会議では県委員会が決定した2000年問題に対する意見が続出しました。また日立神奈川争議団に対する印刷機使用拒否問題等も出され、会議続行が不能となりました。
またこの会議の中で電力会館の建設については党は一切関知していない、また党からは会館竣工式には参加していないという発言があり、この問題を巡って神奈川県委員会と電力連絡会の間で4回にわたって話し合いがもたれました。初めは会館建設について相談も図面も見たことはないと小池委員長が言っているとして、頭から否定していましたが最終的には当時の小池書記長が会館建設の話は聞いたが図面は見ていないということで決着しました。しかし会館の竣工式には元衆議院議員の中路さんが出席しお祝いを出したことは認めるが、儀礼として出席したものであり党からの出席ではないと言い、必死に電力会館の建設を党として認めたたことを否定してきました。
2001.03.09日に日本共産党北東地区委員会が日立神奈川争議団へ印刷機の使用拒否問題が発生しました。電力連絡会の斉藤氏は、この問題について横浜北東地区委員会に文書送付しましたが返答がないために再度横浜北東地区委員会に文書送付しました。
引き続き斉藤氏は、横浜北東地区委員会に再質問書所送付し、斉藤氏が所属して いた支部からも県、横浜中央、北東地区委員会に29項目の質問状を提出しました。回答がないため、2002.08.28 に2回目の質問状を提出しました。これに対し2002.09.27日 に県委員会より支部に発信日付のない回答しない旨の「回答」文書がきました。
2002.10.30 に支部は県委員会、横浜中央、北東地区委に3回目の質問状提出しましたが回答は全くありませんでした。続いて2003.03.01 にも4回目の質問状を提出しましたがこれも回答はありませんでした。そのため2003.07.26には5回目の質問状を提出しましたが梨の礫で回答はありませんでした。
この様な情況が続く中でもこの電力会館は、神奈川の反合権利闘争拠点として活用され、神奈川争議団共闘会議、横浜争議団共闘会議が事務所として、更に日立神奈川争議団とこれに続いて東芝争議団が事務所を置きここを拠点として活動を展開しておりました。
この様に電力労働者会館は各争議団の大きな支えとして活用されてきましたが、日本共産党神奈川県委員会やそれと同調する神奈川労連から神奈川の反合権利闘争への攻撃が開始されると、党や神奈川労連などから「電力会館は悪の巣窟」などとのデマが飛ばされ、それまで会議室を利用していた団体も借りなくなるなど大きな影響が出始まりました。現在でもこの状況は続いています。
(1)千代田争議に対する共産党介入の概要
千代田化工争議における日本共産党の介入は、その後の神奈川の反「合」権利闘争への介入の発端になった事件として、あらためてその経過と問題点の解明が大切になっています。
千代田化工争議や日立争議での日本共産党中央委員会の介入については、千代田化工争議での秘密交渉事件、解決金の配分についての神奈川県委員会の労働組合部長の発言があったり(ある争議団員の想い参照)、日立争議では北東地区委員会の小沢副委員長の「党中央の新堀労働組合部長や犬飼の指導の下に行われているとの地区支部長会議での発言からも、中央委員会の指導のもとに行われていたことが明らかになっています。
千代田化工争議に対する弾圧の文章は、日立保管金支払請求事件で横浜地裁に提出された山田春男氏の陳述書により詳しく述べられています。
問題の概要は、争議解決(98年12月)後、提訴外者4名の会社との「秘密交渉」 が表面化し、「99年5月に、非争議団員たる党支部員Y氏が党中央に『争議団は間違っている』などと訴願を出した」(日立保管金支払請求事件山田春男陳述より以下「山田陳述書」とする)なかで、「県党はこの訴願を口実に、99年11月、11項目に及ぶ決定」(山田陳述書)を私たちに示しました。
その決定に対して「私は次の4項目はどうしても従えませんでした。4項目とは @ 争議解決時に提訴外者としての差別是正要求を拒んだY氏等の4人は、争議団や党機関の知らないうちに会社との是正交渉をしたが、この交渉を『秘密交渉』と言うな、 A 争議団が党支部をだめにした、 B 争議解決金を他の争議に貸すな、 C 県党主催の党内会議で県党や神奈川労連を批判するな」でした。(山田陳述書)
争議団員の3名の党員が4項目について、これに従うことが出来ないとすることに対し日本共産党は「党員資格に欠ける」として、01年6月及び9月に日本共産党から除籍してしまいました。(2001年12月日本共産党横浜北東地区委員会以下「地区見解」)
(2)日本共産党の介入と問題点
1)「党規律違反」を前面に、事実経過を歪曲・否定する上級機関の指導
「地区見解」は、3名に対する除籍は「意見の違いではなく、三氏が党規約にもとづく、党のルールを乱暴にふみにじったもの」とし、3名は「『支部内に意見の違いがあるなかで、県委員会、地区委員会がその一方に組みして、われわれを不当に排除した』などと自らの党規律違反問題を歪曲して、機関批判をふりまいているとしています。
しかし事実はまったく逆で、今回の除籍措置は、意見の違いによるものではなく、『意見の違いは保留して一致点で団結を』との県委員会の指導を受け入れず、党規約を乱暴にふみにじった三氏のルール無視の態度によるものである」としています。
ここには、党指導の責任を負う「上級機関」としての配慮と責任は全く無いのであります。
言葉をかえれば「自己分析的な視点」からの解明と、予断のない事実関係の徹底した調査と真摯な対応がなく、何故提訴外者が会社との交渉に走ったのか、そのことが当該党支部にどのような不団結と結果をもたらしたのか、何故会社が争議団と別立ての交渉に入ったのか、資本は千代田化工争議勝利解決をどう見ていたのか、「秘密交渉」が労働組合運動など社会的・一般的な常識・道議から判断してどうなのか、などさまざまな角度からの調査・分析が欠かせないにもかかわらずこの分析を全くしていないのです。
「地区見解」は「党規律違反」を全面にすれば、それでこと足りるとしか判断せざるをえないほど、問題解明のための事実関係の解明は、極めて安易かつ乱暴な主張になっています。こうした「地区見解」の性格は、事情を知らない、かつ争議運動に関心のない党員には通用するかもしれないが、労働組合運動、争議運動に関わった活動家には「新たな疑問、批判」を呼び起こさざるを得ないものであります。
経過と事実関係のなかにこそ、問題の真相と解決のカギが秘められているのです。
2)提訴外者の「訴願」を口実に当該党支部を分断し争議団を排除した上級機関
問題の真相を明らかにするうえで、当該党支部の分断・排除の口実になった日本共産党中央委員会への提訴外者山下氏の訴願後の経過が重要です。訴願後の経過は以下のとおりです。
山下氏は前述したように、99年5月共産党中央委員会へ訴願を提出しました。これにいたる経過については、次項で明らかにしますが、これを契機にして、上級機関による介入が公然と行われるようになったのです。
訴願の翌月の6月には、上級機関地区委員長より当該党支部にたいし「支部総会で争議総括部分の議案採決を行うな」との県委員会見解が直接指示されました。さらに7月には「党に隠れて会社と秘密交渉を行ったことは、支部が不団結状態にあったのでやむを得なかった」との県委員会見解を明にするとともに、山下氏ら非争議団員7名を集めてこの見解を説明しました。こうした事態は、その後もいっそう激しくなり、翌年1月上級機関の県委員会は、元争議団員全員を排除して、山下氏等による「支部会議」を招集する事態になり、さらに同年3月県委員会一部幹部が出席し、支部総会において支部委員会選挙が強行され、支部指導部から元争議団員全員が排除され、当該党支部の分裂が決定的になったのです。
こうした経過の中から、上級機関による、何故こうした事態にまでなったのか等の自己分析的な解明はなく、上級機関の指導に異論をもち、抵抗するする元争議団員を執拗に排除することだけが自己目的化していたことが明らかです。
3)上級機関の乱暴な介入がなければ、自主的に解決していた「秘密交渉」問題
この問題を解明する上でも、経過と事実関係を明らかにすることが重要です。
98年3月第1回争議解決交渉が始まり、支援共闘会議において、職場の提訴外者の是正などについて議論になりました。こうした動きに平行し、当該党支部においてこの問題の論議が行われ、98年5月の会議において「提訴外者として、みんなでゴール」することを上記山下氏以外全員で意志統一したのです。これを受けて98年9月山下氏を除く4名が支援共闘会議に、差別是正で提訴外者として同時に解決することを要請したのです。しかしながら、同年10月に入ると何故かこの4名のうち3名が「支援共闘はバックペイを要求しないなら」として同時解決から離脱し、そして98年12月争議全面解決直後の同年12月末、山下氏と上記離脱した3名が秘密裏に会社に要求書を出していたことが、後日判明しました。このことは、翌99年3月会社の山下氏等4名の昇格辞令が社内報で発表されるなかで、会社から明らかにされたのであります。
当該党支部会議ではこのことが当然大きな問題になり、論議のなかで99年5月の当該党支部総会において、争議総括を行うなかで「支部に相談なく会社と是正交渉をしたのは正常ではなかった」等の口頭報告が山下氏以外の全員で了承されたのであります。
4)上級機関のどんな「論理」も、利己的な金銭欲の「秘密交渉」の本質は隠せない
@「秘密交渉」について、「地区見解」の上級機関の解明は、この交渉によって提訴外者4名の差別是正が勝ちとられたことは、千代田化工争議団の「長期にわたるたたかいの成果として、争議の勝利的解決をかちとっていたことにあることは明白です」としています。さらに、提訴外者4名について資本が何故解決したのかを「4名の同志たちも日本共産党員として手ごわい相手であり、これらの同志の差別も同時に解決しておかないと争議の全面解決にならず、新たな争議の火種を残すことになる」などと解明しています。しかし、こんなご都合主義は通用しません。前段の部分は、まさに世間でいう「人の尻馬にのった」といこうとを認めているのです。後段の部分で言えば、今日この4名の内、一人は解決後に退職、一人は昨年定年退職、残りは二人となり、その内の一人だけが、2ケ月か3ケ月に一回、一人でビラを配っているだけになっています。
これに対し除籍された元争議団員らによって結成された全日本金属情報機器労働組合千代田化工支部(略称JMIU千代田化工支部)は、粘り強い職場活動と争議支援活動を両立させながら、結成時4名の組合員を9名へと拡大するなど、組織的に前進をかちとっています。
「地区見解」は「たたかい方の違いはあっても、一人でも多くの同志が反共思想差別の是正をかちとったことをもろ手をあげて喜ぶことこそ、日本共産党員としての当然の立場です」としています。
ここには、職場の自由と民主主義、労働者の権利と生活を守るために献身的に活動する日本共産党の存在と役割があるとする観点からの解明は一切ないのです。
提外者の職場における活動が労働者からどう評価されているのかが明らかにされず、もっぱら外的な差別是正のみを評価する「安易な発想」なのであると言わざるを得ません。
この活動こそが提訴外者の是正の基本に据えられるべきではないでしょうか。このことを前提に、私たちは提訴外者の差別是正を前進的に評価することが出来るのです。このことは争議解決後の職場活動の発展のためにも不可欠なことだと考えています。
「地区見解」における上級機関の解明は、「秘密交渉」ではないとしきりに強調しています。
提訴外者の4名の差別是正が「千代田化工争議団の長期にわたるたたかいの成果と」認めながら、当該争議団に一言も明らかにしないで会社と交渉する。
それも地労委・裁判所など第3者機関にも係争していない、支援する仲間にも一切表面に見えなかった共産党員がです。
労働組合運動に多少の経験があれば、労働組合に隠れて会社と交渉する、それも共産党員が交渉をしていると分かれば、職場労働者の評価は明快です。「秘密交渉」であり「裏切り」であることは常識なのです。
上級機関による「地区見解」は、共産党員であれば、このことが「免罪」されるとも信じているのでしょうか。
(3)千代田化工争議における政党介入の事実は
以上見てきたように、これまでの反「合」争議運動の成果を真正面から否定する重大な問題であります。さらに問題は、こうしたことがその後一切、総括・自己批判されることなく今日も上級機関の争議指導の基本として、理不尽にも強行されていることであります。東芝争議にそのことが、より露骨・深刻にあらわれており、ここに、今日の反「合」権利闘争再構築の課題があるといわざるを得ません。
3.日立神奈川争議に対する介入・分裂と弾圧
日本を代表する大企業日立との闘いにおいても、日本共産党は不当な介入を行い、争議の早期解決への大きな阻害要因となりました。
東電争議、千代田争議に続き日立争議での、日本共産党の介入は全労連・神奈川労連と一体となって行われたことが大きな特徴です。
神奈川においても、日本共産党神奈川県委員会と神奈川労連が強く結び付き、自由と民主主義、進歩と革新という言葉とはほど遠い卑劣な攻撃と不当介入を行ってきました。
このことは、日立争議の総括集、党関係の文書からも明らかになっています。
そして、日本共産党と全労連・神奈川労連・弁護士の卑劣な介入を目の当たりにした党支持者の共産党離れ、県内の労働運動の停滞と衰退の端緒となりました。
(1)過去に例のない全労連介入による分断
日立争議は、1都3県の8争議〔東京では残業拒否田中解雇事件、中央研究所賃金差別事件、東京賃金差別事件、男女差別事件(東京と神奈川にまたがった事件)と、茨城では賃金差別事件、愛知では賃金差別事件、神奈川ではサービス残業申告報復事件、賃金差別事件、男女差別事件〕が日立を相手にそれぞれが独自に闘っていました。
当初「日立争議は生まれも育ちも違っていて顔も違う」「そういう争議が一緒に解決できるのか」と言った意見もありました。しかし、半世紀にもわたって争議が闘われてきた中で、職場における差別争議を自ら立ち上げた8争議団は意見の相異を克服し、日立争議の全面一括解決をめざす方針を決定(96年4月28日)し、また全面一括解決を勝ち取るために都県毎に支援組織を結成することを決め、その支援組織の代表で中央連絡会を結成するための準備をすることを決めました。神奈川ではこの決定に先立ち、県内の3争議がまとまり、日立神奈川争議団を結成(96年1月24日)しています。
日立神奈川争議団は神奈川県内で過去に闘い勝利した争議団の運動を引き継ぎ、県内での支援組織を結成のために日立闘争神奈川支援共闘準備会を結成(96年3月7日)し、争議の運動と解決に責任を持つ日立闘争神奈川支援共闘会議を翌年結成(97年11月25日)しました。
ところが97年7月9日に東京の賃金差別争議、同月17日に中研差別争議に中央労働委員会から和解勧告が出されると中研賃金差別争議団が日立8争議団で決めた全面一括解決方針を踏みにじり、中研差別争議の先行解決を言い出しました。
中労委からの和解勧告に対し、全労連は、結成し10年が経過したことから労働運動は全労連主導で指導する、大企業争議の解決は全労連が行なっていくなどと言いだし、日立争議に介入を始めました。このことにより、中研差別争議団や東京の支援組織が東京中心主義や権威主義をかざし日立8争議団内に不団結が生じてきました。
各都県の支援組織による中央連絡会結成を行なうために98年2月から12月まで6回結成に向けての話合いが行なわれました。神奈川は、各都県の支援組織が対等平等の立場で組織作りを行なうことを主張したのに対し、東京の争議団や支援組織が日本共産党や全労連の介入により全労連を中心に据えた組織作りを強硬に主張し、神奈川の支援共闘を排除する動きが強まり話合いが頓挫してしまいました。
その後は東京の争議団が中心になり、神奈川を排除して1都2県の争議団で、日立争議支援中央連絡会を結成し、全労連が支援共闘の中心に座りました。
神奈川の大企業争議は、それぞれ個別の支援共闘が組織され、全国闘争を展開して、全労連結成前後の80年代から90年代に画期的な勝利解決をはたしてきました。
そこには、全労連が支援共闘の中心にすわった事例はありません。それぞれの支援共闘は自主的に組織され、独立した支援共闘組織として全労連に支援を要請し、これをうけた全労連は全国に支援を呼びかけ、全国的闘争を行ってきたのがその歴史的経過です。神奈川でも、階級的労働組合運動をめざす統一労組懇とナショナルセンター全労連の全国的な組織と運動をとおした支援活動が、その勝利解決に重要な役割を果たしてきました。
一般的に争議は、その当事者の現場組織のたたかいから始まり、産業別闘争・地域闘争として支援組織・支援共闘が組織されます。そしてその運動の度合いによって、ローカルセンター規模・ナショナルセンター規模への運動として発展・拡大します。したがってローカルセンター・ナショナルセンターの支援共闘組織への参加を要請するかの選択は、当該支援共闘と争議団の判断に委ねられています。
本来ナショナルセンターの重要な機能として、産業別労働組合組織・地域労働組合組織の要求を全国的・産業別に統一し調整すること、また困難な条件のもとで不当解雇・差別などたたかっている争議団に、全国的な連帯・支援の行動を組織することが明らかにされています。
神奈川の大企業争議の総括は、こうしたナショナルセンター・ローカルセンターのもつ機能(組織と運動の両面をもつ)が原則的に実践されてきたことを明らかにしています。日立闘争神奈川支援共闘会議・争議団は、こうした神奈川の権利闘争の歴史的教訓に学びながら、全日立争議の統一にむけて、全労連との間で支援共闘問題での協議を重ねるなど努力してきました。全労連で日立争議を担当していた鴨川副議長(当時)は、「全労連は、当該の全員から頼まれない限り、支援共闘の代表を引き受けない」と表明(98年5月20日)し、神奈川を訪れた全労連熊谷副議長(当時)も「形だけの交渉団を作ってもバラバラではしようがない。当該がまとまって要請されれば支援共闘代表を受ける立場」だとの原則的な考えを表明(98年8月5日)しました。「団内部に、不一致・不団結」がある場合、その一方にナショナルセンターが加担してはならないという、きわめて当然のことと言えます。
しかし全労連は、こうした経緯を無視して、神奈川を排除、神奈川が不参加のままに開催された会議で先行解決を決め、全労連を中心とした中央連絡会を結成しました。結果として全労連は、日立神奈川を排除して一都二県の中央支援連を立ち上げ統一を放棄したのです。このことは、ナショナルセンターとしての「調整機能」を自ら放棄するだけでなく、当該争議団の団結に取り返しのつかない事態を生むことにつながりました。
こうしたなかで神奈川労連も、これを受けて、全労連と一緒にやらないのであれば「是々非々支援」と言いだし、日立神奈川争議団と神奈川支援共闘の提起する運動を事実上は支援しなくなり、日立闘争神奈川支援共闘会議・争議団を排除した全労連の一方の側にたった立場から、日立闘争神奈川支援共闘会議・争議団を「統一」の阻害者として批判・攻撃をする深刻な事態を招きました。
当時は、運動を分断させてまでなぜ、全労連が中央組織の代表に固執するのかが理解できませんでしたが、その後の数々の資料から、日立資本が全労連に対し解決の仲介を頼んだことが明らかになりました。
1都2県の中央支援連の総括集(01年11月発行)では、「中研先行解決を強く主張していた会社が、99年1月、突然、嶋田一夫中労委労働者委員を通じて、『争議の全面解決をはかりたい』との意思を伝えてきた。この背景については、全労連に一括解決の窓口を期待したのではないか・・・さまざまな見方があったが、日立争議団にとってはまさに早期全面一括解決の絶好のチャンス到来であった。」と書かれています。
当時、鉄の門を堅く閉めて要請に応じない会社に対し、神奈川が「運動で情勢を切り開こう」と主張しても、「解決の絶好のチャンス」としか、日立の東京争議関係者は答えませんでしたが、争議解決実績を多く持っている神奈川には、会社の動きを伝えずに全労連が密かに争議解決の実績を作ろうとしていたのであれば、神奈川排除を策動した全労連の行動に説明がつきます。
また、「労働運動」誌03年7月号の座談会では、日本福祉大の大木一訓教授が「日立という日本の代表的な企業が連合組合を飛び越えて、全労連に和解交渉の仲介を依頼し、全労連および『争議団』との間で長期にわたる事実上の団体交渉を行い・・・公式に協定を結んだ」と、日立が全労連に和解交渉の仲介を依頼したことを初めて明らかにしました。 大木教授の後には座談会で全労連熊谷議長(当時)が発言していますが特に異議は述べていません。当時、1都2県が「会社とのチャンネル」で話し合われたらしい結論を神奈川に押しつけるようなことがあり、「会社とのチャンネル」などのすべてを明らかにしないことが大きな問題になっていましたが、それを隠したまま、99年1月16日、神奈川を排除して中央連絡会(準備会)結成の方針を決めその代表を全労連が引き受けてしまいました。
こうした動きに神奈川の原告団と支援共闘会議は批判を行い、日立争議全体の団結を求めましたが、全労連と神奈川労連からの回答は、「団結案」を持って来いとのことでした。 この求め(99年3月、4月)に応じて、神奈川の団と支援共闘は文書(資料:「団結の回復に向けて」)で提案しましたが、それを求めた全労連の西川副議長(当時)は、その説明を聞くことすら拒否し(99年7月26日)、1都2県の争議団も「無条件で中央連絡会(準備会)に入ってくるしかない」と団結案を拒否しました。
1都2県争議と神奈川が統一して進む機会は数回ありましたが、大企業争議の中心に座っての実績を作りたかった全労連が、1都2県についたことにより、統一の機会はなくなりました。
相次ぐ大企業争議が神奈川中心に解決していくことに、焦りとおそれを感じた資本が、全労連の野心を見抜いた上で、日立争議を利用して全労連と神奈川の運動を分断させてきたとも考えられます。
全労連は、これに乗って、態度を豹変させ1都2県の先行解決に走ることになります。このことにより、神奈川の争議団からも、宮崎が脱落し、続いて中村が分裂行動をとるようになりました。
日立とともに闘ってきた東芝の争議でも、神奈川労連が、支援共闘会議結成準備会の場で当該が選んだ事務局長を認めず、自らが中心に座ることを主張し、結成が流れてしまうなど他の争議にも影響を与えました。
(2)日立神奈川争議に対する日本共産党神奈川県委員会の不当な介入
日立神奈川争議が直面した深刻な事態に日本共産党との問題がありました。
争議をたたかう原点は共産党員の活動を嫌ってあらゆる差別をしている日立に対して、憲法で保障する思想・信条の自由を認めさせ、職場の自由と民主主義を前進させることでした。このためにこそ、日立の労働者が困難なたたかいに立ち上がり、多くの支援者がともに闘ったのです。
しかし、たたかいの最中に彼らが全く予想だにしなかった事態が引き起こされたのです。日立資本と闘う中で、味方陣営であるはずの日本共産党から不当な介入を受け、組織排除まで行われたのです。
@日本共産党神奈川県委員会によるリストラ反対運動の妨害
日立争議の大量宣伝を実施していく中で、社会問題となっているリストラなど大企業の横暴問題を地域に訴えていくために、連合職場連絡会や神奈川争議団、日立神奈川支援共闘会議は「大企業の横暴を規制する連絡会」を結成させる準備をし、神奈川労連にも呼びかけをして参加してもらうことにしていました。
1999年2月14日、神奈川労連との話し合いでは、高橋議長、菊谷事務局長も参加をし、「予定どおり2月17日に連絡会を結成すること、労連は機関会議での承認手続きが必要なので遅れて参加する、そのため結成時には連絡会役員を決めずに労連参加後に決めることにする」などを確認しました。
しかし、神奈川労連は、突如、2月23日の労連幹事会で労連主導の別組織を提案し、リストラ問題はそこで取り組むと言いだしました。
また、日本共産党神奈川県委員会は、連合職場連絡会や神奈川争議団、日立支援共闘会議の中心となっている党員を呼びだし、県委員会の「指導方針」として、大企業の横暴を規制する連絡会での活動は認めない、と伝えてきました。あわせて、党の方針に従わない場合は、除名も含む処分もあり得ることを一方的に伝えました。大衆団体が決めた方針に対する露骨な介入であり、大企業の横暴と闘うための大衆的自主的な運動と組織を潰すために、党と神奈川労連が一体となって妨害介入をしてきたと言えます。
そして、このことは後述の団員と支援者に対する、党の除籍処分へとエスカレートしていきます。
A日本共産党が争議団佐藤明と日立闘争神奈川支援共闘会議代表委員池田実氏を除籍処分とし全県に公布
この問題については第9章にて詳細に分析説明しました。
B党会議での発言を制止した党神奈川県委員会
日本共産党神奈川県委員会主催の経営支部活動者会議において、議長の指名を受け発言のため壇上に上がろうとする団員の小島氏を、議長が指名したにもかかわらず党幹部が制止し、発言を認めさせないとしたことなどもありました。このことは、党幹部による不当な言論弾圧として、会議に参加していた多くの党員が目撃しました。
C日本共産党北東地区委員会の印刷機使用拒否問題
この問題は01年3月19日、争議団員が日立男女差別争議の裁判所宛団体署名要請文の赤印の印刷の為、北東地区委員会に印刷機を借りに行きましたが副委員長は、今回は「『この団体署名に神奈川労連はハンコを押せない』 と言っている以上、共産党が印刷機械を使わせることはできない」として印刷機の使用を拒否した問題です。
日立神奈川争議団が北東地区委員会に印刷機を借りることにしたのは、以前に日立神奈川賃金差別事件の神奈川地労委宛団体署名要請文印刷の際に赤色の印刷可能な印刷機を有していたのは北東地区委員会であったので借用した経過があったからでした。その際には印刷機の使用料金も支払い、気持ち良く貸していたのにも関わらず、この時には使用を認めませんでした。
なんの理由も示さず、神奈川労連と「協力共同の立場から」として印刷機の使用を拒否したものです。
D3権分立の立場から裁判所への要請文には署名できない
01年5月、男女差別事件の裁判所宛て団体署名の要請を西南地区委員会にしていましたが、西南地区委員会は、これまでは争議支援の団体署名を行ってきましたが、「立法の立場にある政党が司法に対する団体署名に賛同する行為は今後しないとのこと。中央は昔からこの立場からしていない。地区レベルでは曖昧だった。また、企業に対する団体署名等も行わない(この理由は分からないという)。」として男女差別事件の団体署名を拒否しました。理屈にならず訳の分からない理由を並べ立て、これまでしていた署名への態度を変えて、支援しないための署名拒否と言えます。
E西南地区委員会の宣伝力ー貸し出し拒否
日立神奈川争議の解決交渉も大詰めを迎えていた02年6月23日(日)、戸塚地域で3万枚の地域ビラ宣伝行動を取り組んだ時のことです。「リストラ・分社化反対、日立争議の解決をめざす6・23宣伝行動」と銘打って行った行動でした。当日は宣伝カーによる区内宣伝を行うため、事前に西南地区委員会に対しても宣伝カーの借用を申し入れ、了解していました。しかし、前日になって宣伝カーの使用を拒否してきました。
F日立神奈川争議解決報告集会への参加拒否及び「参加は適切ではない」と妨害したこと
2002年11月30日、「日立神奈川争議全面解決報告集会」が横浜国際ホテルで開かれ、400名を超える参加者で成功裏に終わりました。この集会を準備する過程で参加者から共産党神奈川県委員会が「集会では日本共産党を誹藷・中傷する可能性があるので集会参加は適切でない」との見解を出し、集会に参加しないよう支部や党員に伝えていることが明らかになりました(10月30日付け、県委員会から各地区委員会への連絡)
政党が大衆組織の争議勝利報告集会に「参加するな」という指導をしたことは歴史的な汚点といえます。
日立神奈川争議の解決交渉の終盤で団から脱退し、弁護料も支払わずに個別解決をした宮崎の「日立・宮崎争議勝利報告集会」が03年2月1日に建設プラザで行われました。実行委員会のメンバーは岡本一(神奈川労連副議長) 朝海吉一(日本共産党神奈川県央地区委員長)を含む8名であり、朝海地区委員長は、集会プログラムに寄稿した文書のなかで「10年余にわたり『世界の日立』を相手に思想差別を背景にした賃金昇格差別争議をねばり強くたたかいぬき、見事に勝利し解決したことに心から連帯の挨拶を送ります。宮崎さんは、争議にかかわって前半の数年間は争議団長として奮闘されました。後半は全日立争議の一括解決をめぐって統一と団結を守る立場を一貫してつらぬき通しました。今、差別争議のあり方が問われているとき、何が階級的民主的道義にかなった方向なのかを示唆するものとして、彼の勇気あるたたかいに敬意を表するものです。」と述べて、分裂行動を取った宮崎に対して最大級の賛辞を送りました。
H中村由紀子の個人的な欲望を利用し、裁判所に提訴
04年2月4日、中村由紀子が解決金の配分を要求し裁判に提訴しましたが、日本共産党神奈川県委員会は、中村の個人的な欲望を利用し、解決金の配分を話し合いで決めるのでなく裁判所に訴え、その裁判を利用しながら、日立神奈川争議団、神奈川争議団共闘会議などの神奈川の反合権利闘争の組織と運動を破壊する目的を持ってこの提訴を支援しました。この裁判は、まさに政党の乱暴な介入と攻撃によっておこされた裁判でした。
争議団が資本との闘いで解決金を勝ち取り、それをどのように配分し、どのように使うかは争議団自身が決めるものです。日本共産党の指導のもとに当時自由法曹団神奈川支部の大川隆司支部長が主任弁護士となり先頭に立って支援し、共に闘った仲間を被告にして裁判を起こした中村を、日本共産党や神奈川労連が支援するという前代未聞の事が行われたといえます。
(3)日本共産党の介入を端的に示す中村裁判の背景と動機、経過
日立神奈川争議団に所属していた中村由紀子が、会社との争議解決後に日立神奈川争議団の代表者佐藤明(団長)を相手取って、解決金請求裁判を横浜地裁に提訴したのが、04年2月4日です。そして事件は横浜地裁判決、東京高裁判決が出され、佐藤は全面的に敗訴し、上告を断念したため、東京高裁判決が確定し終結しました。
この裁判では、佐藤団長の性格的弱点が表面化したことから十分な裁判闘争を取り組むことができなかったことが日立神奈川闘争第二次総括集に書かれていますが、裁判に提出された書証としての党関係の文書から、日本共産党の不当性が明らかになりました。
@中村の裁判提訴の動機
02年11月24日、中村が報告集会欠席と退団表明、解決金の9分の1の1100万円を要求する内容証明付の文書を団に送付してきました。以降中村は団会議への出席要請にも一切応じず、解決金の使途についての話し合いが困難となりました。団は中村との話し合いを進めるために、2003年3月10日から8月27日まで中村と佐藤団長の話し合いが6回行われ、一定の解決方向が見えていましたが中村が態度を急変し、話し合いが残念ながら打ち切られました。
その後、中村は裁判の準備を進め、大川弁護士から佐藤団長宛に03年12月3日付けの催告書が送られてきました。弁護士との話し合いは、04年1月10日、2月2日と行なわれましたが合意を得られず04年2月4日中村が横浜地裁へ提訴しました。
中村本人は解決金を少しでも多く自分のものにしたいとする金銭欲と中村の性格面などを争議団員に指摘されたことに対し反省するのでなく被害妄想的な考えから争議団員に対する恨みがあるように思われました。
しかし裁判まで起こした本当の狙いは、神奈川争議団共闘会議結成(77年)以来、小田急、雪印、山武、NKK,東電、千代田化工などの差別争議を自主的、主体的な闘いにより勝利解決してきた神奈川の反合権利闘争の運動と組織を、潰そうとする日本共産党の方針に従って起したものであり、単に中村が個人で起こした裁判でないことは明らかです。
日本共産党は日立神奈川争議団の自主的運動に対し、指導に従わないとして、闘争中から介入を行い争議運動に対し攻撃を行ってきました。しかし日立神奈川争議団は神奈川の反合権利闘争の伝統と闘いを学び継承し闘って勝利したことから、日本共産党は中村をつかって争議団が自主的に決めるべき解決金の配分と使途について「解決金は闘争資金として残すな」「他の争議に解決金を貸してはならない」「全労連と一緒にやるべき」、「神奈川の支援共闘が牛耳っている」などの不当な言いがかりをつけ、裁判の場で金銭をめぐる争いに日立神奈川争議団を引き込み、神奈川争議団、支援共闘を悪者に描き、反合権利闘争の運動と組織を潰そうと狙ったものです。
このことは中村が準備書面で「争議団の名称を残して今後の活動を推進することにより、被告の背後にあって県内の労働運動に対する独自の支配権を確立することに固執する神奈川争議団を支持する結果になることが原告として不本意だったから」と述べていることからも明らかです。
A解決金の配分を話し合いで解決せず裁判に訴え、それを支援した日本共産党、 神奈川労連、一部弁護士の誤り
中村裁判の本質は日本共産党が自主的主体的な運動を進める神奈川の反合権利闘争に対し、日本共産党中央委員会の指導に従わないという理由から、解決金の配分を話し合いで決めるのでなく裁判所に訴え、その裁判を利用しながら、日立神奈川争議団、神奈川争議団共闘会議などの神奈川の反合権利闘争の組織と運動を破壊する目的を持って起こされた裁判であり、大衆運動への政党の乱暴な介入、攻撃であることです。
争議団が資本との闘いで解決金を勝ち取り、それをどのように配分し、どのように使うかは争議団自身が決めるものです。中村の解決金請求裁判は、日本共産党の指導のもとに当時自由法曹団神奈川支部の大川隆司支部長が主任弁護士となり先頭に立って支援し、共に闘った仲間を被告にして解決金の配分を話し合いで決めるのでなく裁判で争うという点で重大な誤りを犯しています。また裁判を起こした中村を、日本共産党や神奈川労連が支援するという前代未聞の事が行われたのです。
中村が裁判を起した目的は、神奈川の反合権利闘争の運動と組織の破壊と共に中村自身の解決金の配分金の増額を狙って起した不当な裁判です。この不当性を裁判で闘う中でその狙い、本質を明らかにし、誤りを指摘し広くしらせながら、相手の狙い、「組織破壊」「解決金の増額配分」を明らかにし、裁判で勝利する中で、「組織破壊」の攻撃を阻止するという意義のあるたたかいでした。同時に、この攻撃を仕掛けてきた日本共産党や全労連、神奈川労連の誤り、介入の不当性を裁判の場でも運動の場でも明らかにし、支配介入、分裂攻撃、組織被壊攻撃をやめさせるという大きな意義を持っていました。
B反合権利闘争・争議団運動に大きな障害をつくり出し、歴史の歯車を逆行させた日本共産党
佐藤団長の性格的な弱点と、党の民主化を悲観的にとらえる勢力と団員の一部が結託したことから十分な裁判闘争が展開されないまま、06年10月19日に高裁判決が出されました。
中村が要求した解決金全額1100万円(解決金総額から弁護士費用と争議の闘いに費やした金額の一部を除いた残金の9分の1(団員9名)とする金額)を中村の持ち分として支払いを命じたのです。
この裁判は今後の反合権利闘争・争議団運動に大きな障害をつくり出しました。
差別是正闘争で得た解決金の使途・配分は訴訟当事者の話し合いで決めるのではなく、解決金すべてを当事者に均等に配分することを当事者個々人の基本的権利として裁判所に判決を出させてしまったことです。日本共産党や弁護士が中村に働きかけてこの結果を作り出した責任は大きなものがあります。
これまで、解決金の配分は、弁護士謝礼、運動の総括費用、今後の闘争資金、個人配分などは争議団として話し合いで決めるのが常識になっていました。
しかし、この判決では、これらの費用はすべて、まず解決金を均等配分し、各個人がそれぞれいくら出すかを決めてよいということになります。個人配分額も差別金額が各人によって異なっていますし、裁判に名前だけを出して運動をなにもしない者も、身銭を切って夜も寝ずに頑張った者も平等の権利を有し、解決金を闘いとった後は平等に配分しなければならないことにもなります。こうした解決金の処理が裁判所で出されたのですが、今後、少数派の自主的団体の闘いの団結に大きな問題点をつくり出しました。これでは、資本との長く厳しい闘いに団結して闘えません。
中村裁判は中村自身の私利私欲もありますがそれを後押しした日本共産党の神奈川の反合権利闘争潰しの狙いと不当な攻撃のもとで作り出された裁判と判決であり、自主的大衆組織の活動を「党の指導に従わない」として弾圧した日本共産党、その方針を積極的に推進した一部自由法曹団弁護士の誤りと責任は根本的な原因であり追及されなければなりません。
日本共産党が党の方針に従わないとして、日立争議で日立神奈川争議を排除し、宮崎を団からいち早く脱退させ分裂解決させ、その後中村に佐藤を相手に裁判を起こさせ、自由法曹団の神奈川支部長を弁護団長にし、神奈川労連の澤田事務局次長を中村由紀子勝たせる会の役員に据え、多くの神奈川労連役員が業務中でも裁判傍聴に参加し、裁判所の門前で毎回ビラ配布を行い、「裁判完全勝利報告集会」には、神奈川労連菊谷議長らが参加して、勝利を絶賛するなどの介入を行いました。加えて日本共産党は日立神奈川支援共闘会議の池田代表委員、日立神奈川争議団佐藤団長をこともあろうに除籍処分にまでしたのです。そのうえで、この裁判を支援してくれている党関係者に対しては「裁判に行くな,行けば教育的措置をとる」と処分を背景にしての脅かしを行いました。また、当事者に対して「裁判に党の文書を出すな」との脅かしを行うなど、裁判制度の根幹に関わる部分まで組織的な介入をしてきました。
傍聴などの日立神奈川争議団に対する日本共産党の大衆運動、組織への介入は、日立争議団やそれを支援する人たちの中にも不団結、分裂を引き起こしました。日立神奈川争議だけでなく、東芝争議でも日本共産党は介入し、東芝争議団を分裂させ、解決も分裂解決としてしまいました。判決では日本共産党の介入問題は触れられていませんが、日本共産党の不当な攻撃をこの裁判の中で党発行の文書を証拠として提出し、日本共産党が争議団運動へ介入して自主的な運動を潰そうとしている実態を一定程度明らかにしました。
こうした神奈川の反合権利闘争にたいする日本共産党をはじめ関係団体の介入の誤りは、いまや明白になっています。誤りを認め、謝罪し、処分や方針を撤回すべきです。
C中村裁判判決を確定させてしまった日立神奈川争議団佐藤団長の誤り
また佐藤の個人的思惑から、中村裁判の狙いや日立神奈川争議団のみならず神奈川の反合権利闘争に掛けられた攻撃であることも投げ捨て、その不当な判決が他の組織に大きな影響を与えることも無視し、日立神奈川争議団内の3名が主張していた上告して闘うべきとの意見も無視し勝手に確定させてしまったことも大きな誤りです。今後この判決が判例として、反合権利闘争を進める多くの仲間に支障を及ぼすことは明らかです。 この判決を確定させてしまった佐藤には大きな責任があります。
(4)政党が大衆運動に介入し分断を持ち込むことは許されない暴挙
1都3県にまたがる日立争議が一つにまとまって解決できるように、様々な働きかけを行い、全労連からの求めに応じて団結案を提出してきた日立神奈川争議団の意見を切り捨て、00年9月12日、神奈川を残したまま1都2県は争議を解決しました。
これを機に、同月16日、神奈川労連幹事会は「日立争議の経過と今後の対応について」という文書で「今後の日立争議の支援は是々非々で対応する」ことを決定し、1都2県と一緒に解決しなかった神奈川争議を事実上支援しなくなりました。
同年11月8日、日本共産党神奈川県委員会は、「争議をめぐるいくつかの誤りとそれを克服する正しい指導方向について」とする政策的指導方向を打ち出しました。(資料:中村裁判乙第3号証「共産党資料001108県委員会配付資料」)
しかし、この決定は文書で党内に発表されていないばかりか、関係する争議団や支援共闘、大企業職場などの関係党員にはなんの相談や意見聴取もなく、県委員会総会に提案され、決定されたものです。県委員会の当時の副委員長らによれば、県委員会総会には文書でなく、口頭で提案されたと言われており、およそ決定とは言えないものです。
しかし、この決定が県党の争議団等への指導方針となり、様々な形で争議団等の不団結を生みだし拡大する原因となりました。01年3月19日、日本共産党北東地区委員会が日立争議団に対し、印刷機の使用を拒否。同年5月9日、日本共産党神奈川県委員会と協力共同の関係にある神奈川労連が、支援共闘会議からの離脱を決議。これを契機に一部の単産・地域労連が日立神奈川争議を支援しないことを決議しました。新婦人も支援共闘を脱退しました。
同年10月24日の神奈川総行動では、自治体要請を行う日立争議支援共闘会議の要請書に総行動実行委員会の押印を神奈川労連が拒否。
このように、政党が大衆運動に介入し不団結を作り出したことの責任は歴史的に糾弾されることになるでしょう。
にもかかわらず、日本共産党神奈川県委員会は、翌02年1月8日には「日立神奈川争議をめぐって起こっている党規律にかかわる異常な事態についての県委員会の見解」(資料:中村裁判乙第5号証「共産党資料020108県委差別争議指導方向」)を発表し、さらに2月1日には「大企業職場における差別是正争議をめぐる不団結問題を解決するためのとりくみと今後の指導方向について」とする文書(資料:中村裁判乙第6号証「共産党資料020201県党常任委大企業差別争議」)を決定しました。
日本共産党員としての誇りをかけて立ち上がった争議を、日本共産党が押しつぶす。日本共産党と全労連・神奈川労連・弁護士が一体となって不当な介入を行った実態は、日立神奈川争議総括集「闘って切り拓いた勝利」(03年12月刊行)、同第二次総括集「逆流を乗り越えて」(11年12月刊行)でも掲載されています。
1)1990年前半の東芝差別争議開始前後における神奈川の差別争議の状況と全労連
東芝では’93年頃より賃金差別の打合せが開始され、’94年に10名が申し立てを決意し、’95、5第1回団会議を行ない、同年8月29日10名が神奈川地労委に申し立てを行ないました。
職場の支援組織として、「明るい会」が同9月2日結成されました。「会」は東芝の職場から京浜地区を中心に現役の会員で構成され、団員は会員ではないが幹事会には提訴団も参加した。「会」は地労委審問傍聴やカンパなどで団を支えました。
運動の飛躍をめざし、団は大衆的な支援する会の発足を準備し、98年11月28日東芝争議を支援する会の発会総会を成功させました。会長空席で事務局長に電力連絡会から宮城事務局長をむかえました。
2)2000年に入って反「合」権利闘争・争議団運動への介入と、東芝支援共闘会議相談会で東芝争議団の要求を拒否する神奈川労連および日本共産党神奈川県委員会
2000年11月8日に日本共産党神奈川県委員会は「争議をめぐるいくつかの誤りとそれを克服する正しい指導方向について」を突然一方的に出しました。同じく2001年1月8日「差別是正争議をめぐる不団結問題を解決するための取り組みの経過と今後の指導方向について」が出されました。
これに先立ち、千代田争議では98年12月末に争議団に内緒で職場党員が会社と秘密交渉をし、金を受け取っていたことが明るみになり、この問題に地区委員会が関与しこの秘密交渉を容認しました。
日立争議では、98年5月頃から全労連が争議に関与し、99年4月からは神奈川労連が関与するようになっていきました。
そして99年初頭には全労連、神奈川労連が争議団・支援共闘内部に対する介入を始めたのです。
東芝争議では、99年9月争議団員の海老根が「東芝の支援共闘論」を主張しはじめました。01年に入ると海老根は日本共産党神奈川県委員会を使い攻撃をあらわにしてきました。海老根は「宮城が来てから変質が始まった」「相田は訴外まで救うのは間違い」と言った。そして「東電では訴外者を救済しなかった」などのデマを言いふらし、意見の違いを団で解決しようとせず神奈川県委員会に持ち込み、日本共産党と一体となって攻撃を展開してきました。
神奈川県委員会は海老根が意見の違いなどで相談にきたことを認めています。そして日本共産党は「労連と日立神奈川の不団結、この問題が解決しなければ本質的な問題になる。」「東芝でも団の中で意見の対立があらわになっている」として、団の意見を聞かずに一方的に海老根の主張に組みし、公然と介入を始めたのです。
このようななかでも、支援する会と団は運動を飛躍的に強化し、弁護団も奮闘して2001年4月、26日地労委で全面勝利命令を勝ちとりました。
しかし会社はリストラ合理化を強引に進め争議団員にも転籍攻撃をかけてきました。団員はこの攻撃に屈せず門前ビラなどで反撃し労働者を励ましました。この闘いの中で会社は転籍を断念し2002年2月1日、原告の五十嵐に対し青梅工場に配転を命じてきました。五十嵐は「異議をとどめて青梅工場に配転」することになりました。
2002年3月6日に原告の下野・内田に対し東芝キャリア社への転籍命令を出してきました。両名はこれを拒否して、横浜地裁川崎支部に仮処分申請を行ないました。このような状況の中で会社は転籍を断念して、4月1日愛知工場へ報復の遠距離配転命令を出しました。この会社の不当な配転命令に対し5月13日下野・内田・五十嵐の三名の原告は地労委に不当配転の申立てを行いました。
翌年米村原告に対しても日野工場に出向の業務命令がだされ、米村原告は「異議をとどめて日野工場に出向」しました。
下野・内田への転籍攻撃に対して、日本共産党は、転籍に応ずるよう指導し、「明るくする会」の一部と海老根もこの共産党の方針に呼応して転籍に応じるべきと団方針に反対し干渉してきました。
一方弁護士も、神奈川県委員会や神奈川労連と一体となり「あなた達は革命をする気か」と怒鳴りとばすという異常な対応をしてきました。
このような状況の中でも争議団は支援する会と十分討議し意思統一を行い、気持ちでは解雇を恐れず会社の脅しに対し毅然として闘う方針を堅持して闘いを前進させてきました。
争議団と支援する会は、支援共闘会議の結成を展望し準備を開始しました。第1回相談会が神奈川労連を含む7団体で01年9月17日に開催され第2回めは01年10月26日に第3回目は01年12月6日に第4回めは02年6月28日に行なわれたましが、東芝争議団の要求を神奈川労連は頭から拒否し続けました。
その理由は「支援共闘会議の中心は神奈川労連が担う」「支援共闘には全労連・東京労連を入れるべきだ」「宮城を事務局長にする原告の提案には反対」と主張し、相談会は意見の一致を見ることができず中断となりました。
このように東芝争議団の支援共闘会議の結成は神奈川労連により潰されたのです。
争議状況は02年7月2日中労委結審となり和解の打診が行なわれました。
このとき補佐人メンバーをめぐり海老根と「明るい会」は廊下で大声を出して騒ぎたて多くの人たちから顰蹙をかう事態が生じました。
この中労委の結審は5月13日の予定でしたが、前記のように会社は2月、4月、に相次いで団員の下野、内田、五十嵐に別会社への転籍を迫り、これを拒否した3名を遠隔地に配転し、争議潰しの攻撃をしてきました。
団は中労委に対し「話し合いに入るには会社が先ず配転を撤回し元の状態に戻すこと」を要求し、確認を求めました。しかし会社にその意志が全くないことが判明したため、10月15日話し合いの打ち切りを中労委に通告し命令作業の促進を求めました。
この間海老根と「明るくする会」は「配転事件は別にして差別事件の和解に入るべきだ」と団への干渉・攻撃を執拗に行うようになりました。それに合わせ弁護団と日本共産党神奈川県員会からも和解に応ずるべきと団とに迫ってきました。その結果中労委命令が半年遅れる結果となりました。
同年7月19日の支援する会第4回総会の場で「明るくする会」の一部と海老根は不規則発言で議事の妨害を行うとともに、鈴木氏を副会長にの提案に対しても、言いがかりをつけてきました。その内容は日立争議と鈴木氏に対する誹謗中傷であり、いわれのない侮辱の発言でした。
さらに団攻撃を全面的におこない会場が騒然となりましたが、団は一致団結してこの妨害を排除して団結を一層固め前進してきました。
3)日立争議の二の舞となるような争議では神奈川労連は支援出来ないと東芝争議に介入
2001年5月25日、海老根がメールで次のような発信を行いました。 「地労委全面勝利命令報告集会で『支援する会の宮城、越智、太田氏らの一方的な運営で・・・連帯挨拶から意識的に神奈川労連と地域労連が排除される結果となりました』また『小向支部では日立争議支援共闘から神奈川労連が脱退したことを示す神奈川労連幹事会文書を地区委員会経由で入手して全員に配布して説明・討議してます』さらに『支援する会一部幹部による[争議の実績があり、寝食を共にしてくれる幹部]を中心とした支援共闘準備会の発足を阻止できるかどうかです。変な組織ができれば潰すのに無駄な時間がかります。』
以上のようにこの時期に海老根が言ってることは、別の場(日本共産党神奈川県委員会と神奈川労連)で東芝争議の論議と方針が話し合われていたことが明らかです。
このことは2001年11月17日の東芝県活議事録(海老根作成)に明らかなように日本共産党神奈川県委員会から東芝の共産党員に対して、神奈川争議団共闘会議を破壊する県活会議が開催され徹底されていたのです。
日本共産党神奈川県委員会と一体となった神奈川労連は、2001年12月12日神奈川労連第6回幹事会の東芝支援共闘問題相談会報告で、「支援共闘の構えや構成を曖昧にし、日立争議の二の舞となるような可能性を秘めた争議では神奈川労連としては、人を出して支援共闘会議にも参加して支援する争議としては位置づけることは出来ない。」とその後の事態を示唆する報告をおこなっています。この様に共産党・神奈川労連が中心となって神奈川争議団共闘会議の中心であった東芝争議に介入してきたのです。
2002年7月31日労連第18回定期大会議案資料で「・・・当該に意見をまとめ調整する努力や熱意が見られず、早期の結成は困難な状況です」と東芝争議団を一方的に侮辱する記事を載せました。
このような状況の中で団は2002年8月24日、団の団結を維持するため、日本共産党神奈川県委員会・神奈川労連と一体となって分裂工作を行ってきた海老根の権利停止を団で決定しました。
2002年11月2日の第3回幹事会で海老根の署名の入った文書が配布されました。
その内容は、東芝争議を誹謗・中傷するもので内部問題に外から干渉・介入させる行為、不団結を拡大し、内部分裂につながる行為を神奈川労連と連携し公然と開始するものでした。それを受けて神奈川労連は同年12月7日労連第4回幹事会で「東芝提訴団への質問」なる東芝争議団に何一つ確認せず、海老根の一方的な報告に基づく争議団の内部問題に介入する文書を配布したのです。この神奈川労連の質問文書をどこで手に入れたか不明ですが「明るくする会」の一部が忘年会で配布したのです。
日本共産党神奈川県委員会・神奈川労連と「明るくする会」の一部とこれに組した争議団員の海老根が、自分たちの意のままにならない争議団を変質させる動きをとるようになってきました。
そのため以下に記載するようなあからさまな介入が開始されたのです。
4)でっちあげ「暴力傷害事件」と神奈川労連による東芝争議の支援凍結、「明るくする会」分裂提訴
日本共産党神奈川県委員会・神奈川労連と一体となった「明るい会」は2003年1月11日総会を開き、ここに川崎労連、共産党、電機懇を招待しました。 その議案には「二次申し入れと二次申し立てを追求します」と記載されており、「明るい会」は争議団と別に独自の行動に走る意思統一を行ったのです。
これ以降争議団に知られないように地労委申し立ての準備を弁護士を含めて行うようになりました。団が申し立てのことを知ったのは2月22日のことでした。
そして分裂申立てが3月27日に行われました。その申立者は金子氏であり、しかも金子氏の定年4日前でした。
争議団は10月25日「分裂につながる東芝のあらたな神奈川地労委への申し立てについて」を発表しました。
2003年2月1日、労連幹事会に海老根が文書(デッチ上げ傷害事件)を配布、同日神奈川労連はこれを理由に東芝争議支援凍結を確認しました。その後神奈川労連と争議団の間で文書のやりとりが続きました。
2003年2月5日神奈川労連の「質問」に争議団が回答、2月13日労連から「回答に対する見解」出されましたる。3月20日争議団は労連の「見解」の中にある「傷害事件」の事実と私たちの見解をだしました。海老根の作り話を神奈川労連・川崎労連・日本共産党神奈川県委員会まで取り上げ、争議団攻撃と袖山、本田に対するいわれのない非難をしつこくくり返しました。争議団は9月7日「でっちあげの『暴力傷害行為』に抗議し謝罪を求めます」の文書を海老根に送付しました。
5)東芝争議の分裂を決定づけた神奈川労連を中心とした「明るくする会」の支援共闘結成
分裂提訴に肩入れする労連は、「明るい会」と連名で2004年の「10・29全労連争議支援中央総行動への参加と東芝争議の早期一括解決をめざす運動へご支援をお願いします」とエントリーを行いました。争議団と支援する会は全労連に分裂の拡大につながるので、中央総行動の東芝本社と中労委への要請行動を中止するよう検討していただきたいと申し入れましたが、全労連は聞き入れませんでした。
「明るい会」のビラに支援共闘結成の言葉が入るようになり、水面下で支援共闘作りが進められ東芝争議の分裂が固定化される状況になってきました。2005年3月5日神奈川労連第7回幹事会で海老根ら3名の団員の要請を受け「《東芝争議への新たな対応、『明るくする会』の要請に応え、支援共闘作りに向けた相談を始める」を提案をしたのです。その中では・・しかし「東芝争議の『支援する会』は神奈川労連・全労連、日本共産党を誹謗中傷し、敵対する人たちが中枢をしめています。・・・現状では7人の提訴団員・現在の県争議団共闘のたたかいは支援しないことをきっぱりと表明し、『支援する会』と袂を分かつよう呼びかけることが重要です。」と一方的な見解を示しました。
これは公然と争議団と支援組織、運動への分断と分裂を呼びかける争議団の団結権を否定する労働組合としてあってはならない行為です。ましてや全労連運動を進めるローカルセンターとして、してはならない一線を越えたものです。
「新たな一歩を踏み出しました。」との内容は、言うことを聞かない団体は排除するというきわめて乱暴なそして東芝争議団の自主性の否定と団破壊を目的にした支援共闘作りであったと言わざるをえません。
4月30日争議団・支援する会は神奈川労連に質問書、貴労連の第7回幹事会、「東芝争議支援共闘の結成」提案についてを渡しました。
これに対し5月2日付けで神奈川労連から三行半の回答があり、6月16日分裂を決定づけた「支援共闘会議」を発足させたのです。
争議団・支援する会は6月19日「東芝争議支援共闘会議」結成への私たちの見解を発表し全国に送りました。
この異常な事態はさらなる分裂行動に発展し、7月20日付けの「支援共闘会議」と「明るくする会」の団体署名要請書の最後の方に原告団と支援する会を「これらの団体は、全労連や神奈川労連に敵対するようになってしまった集団であり・・・」とまで表現するようになったのです。
このような事態の中で弁護団もこれに加担し変節していきました。02年10月には東芝旧弁護団(自由法曹団系)は原告の意志を無視し「和解調査には入ることを最優先と主張し原告団の意向を無視する状況になってきました。
12月には東芝旧弁護団は「明るくする会」の忘年会で東芝争議団を非難する発言を展開しました。
04年07月に旧東芝弁護団は神奈川労連会議に参加し「弁護団は和解を主張しているが争議団が拒否している」「争議団は7:3に分かれて分裂状態にある」と不団結を助長する発言をしました。
05年01月に争議団は差別事件中労委命令取り消しの東京地裁行政訴訟で、旧弁護団に引き続き代理人の受任を依頼しましたが、受任を得られませんでした。
法廷対策は代理人の受任を含めすべて争議団の組織・団体性を前提に進められてきましたが、争議団内部の不団結が生ずると弁護団は個人申立に固執し「団員一人一人なら受任する。団としては受任出来ない」と争議団の団体性を否定しました。
05年02月弁護団会議で一人の弁護士から文章が提出されました。その趣旨は「争議団員は弁護人に差別事件、配転事件の和解交渉を委任する。解決金は弁護団から争議団各人に支払う。争議団を7名と3名に分けて対応し相互不干渉原則を貫きお互いに批判しない。」というものでした。
この提案は争議団の組織性や団としての運動・交渉・解決の権利を無視したものであり団の分裂を肯定するもので認容できるものではありませんでした。
この様な情況が続く中でも東芝争議団は弁護団会議で長期間話し合いを続けてきました。
東京地裁での差別事件中労委命令取り消し裁判において、05年3月より口頭弁論が開始され、補助参加人代理人の受任をお願いしてきましたが、海老根等3名を「団」が拘束するなら受任できないと「団」を否定する、「団」の団結権を破壊する介入が続きました。
この間3回の口頭弁論が行われ裁判長からも「異例の措置としてきた」と言われ、もはやいつまでも代理人問題で決着がつかない状況は許されなくなりました。8月4日の弁論準備を迎え重ねて代理人受任の依頼をしましたがこれも弁護団は拒否してきました。
そのためこの弁護団への代理人受任を断念し、あらたな弁護団の構築をせざるを得ませんでした。
こうした中で、旧弁護団のもとで同時並行的に進行した県労委配転命令取り消し横浜地裁行政訴訟でも様々な問題が生じました。
旧弁護団は中労委賃金・昇格差別命令取り消し東京地裁行政訴訟で分裂した3名の代理人となり、双方の信頼関係が崩れる中で、配転事件では旧弁護団との弁護団会議の日程を決めることにも苦労し、会社が主張した「カンパニー制」に対し効果的に打ち破る対策や法廷準備も十分に行うことが出来ませんでした。
神奈川県内の自由法曹団や労働弁護団に帰属する弁護士に受任の可能性は全くなく、争議関係者の東京の弁護士に「中労委」命令取り消し行政裁判の代理人を依頼し、05年10月に新弁護団を確立しました。
06年04月に新弁護団・争議団・「支援する会」の合同合宿で争議の経過、賃金差別事件の裁判対策について意思統一を図り、争議団と弁護団の信頼関係を強め法廷対策が安心して進められるようになりました。
争議の中で共に闘ってきた弁護士が原告からの委任に拒否するということはどういうことなのでしょうか、弁護士依頼人と代理人の関係について弁護士職務規程では、「弁護士は良心に従い、依頼者の権利及び正当な利益を実現するように努める。委任の趣旨に関する依頼者の意思を尊重して職務を行う。依頼者との信頼関係を保持し紛議が所持内容に努める」となっています。
この旧弁護団の対応も東電闘争を起因にして展開され、その後千代田争議、日立争議に対して行われた、日本共産党の神奈川における支援共闘方式の反「合」権利闘争を潰す攻撃とタイアップした自由法曹団を中心とした弁護士の策動の一環と言えるのではないでしょうか。
弁護士の意志が変わらないため、「団」の団結権を守るために受任依頼を断念しましたが、この間の状況は差別事件を10年担当してきた弁護団として無責任極まるもとしか考えられません。
争議団と支援する会は、日本共産党・神奈川県委員会、全労連・神奈川労連の分断排除の中でこれに屈せず団結を固め、各職場門前宣伝行動や富士市の東芝キャリア富士工場門前宣伝など大きく運動を展開しました。
全国オルグ行動も行い全国行動を成功させ、2次に亘る東芝総行動を展開し東芝本店前行動や背景資本要請行動を行い、東芝を社会的に包囲する闘いを大きく前進させました。
これらの大きな運動の展開の中から、東芝に争議解決の決断をせざるを得ない状況作り出し、06年4月から会社との解決交渉が開始されたのです。
直接交渉には原告3名を含めて構成した交渉団を構築して望みました、幾度も暗礁に突き当たりましたが、これを乗り越えて解決することが出来ました。
イ 分裂組識の果たした役割
この東芝争議の解決の約1年2ヶ月後の08年4月24日「人権を守り差別のない明るい職場をつくる東芝の会」【以下「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)】が解決しました。
この東芝争議に対しても日立神奈川の争議同様、日本共産党の介入・分裂攻撃が行われました。
この分裂組の総括文章には「神奈川争議団共闘会議の役員経験者の一部・・・の人たちのねらいは、神奈川県内の大企業の差別争議の解決金をもとにして労働組合運動における自分たちの足場を築くこと、特定の争議運動の経験を絶対化して争議運動の指導権を確保することにあったのです。」となんの根拠もなく「神奈川争議団共闘会議の役員経験者の一部」の人たちを攻撃しています。
一方、日立神奈川争議、中村由紀子が起こした「解決金不当請求裁判」での中村側大川隆司弁護士らの訴状によれば、解決金の配分を裁判で要求したのは、「争議団の名称を残して今後の活動を推進することにより、被告の背後にあって、県内の労働運動に対する独自の支配権を確立することに固執する神奈川争議団を支持する結果となることが、原告としては不本意だったからである」と主張しています。
このように「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)の主張と日立神奈川解決金不当請求裁判の中村側大川隆司弁護士らの主張は、神奈川争議団共闘会議や、その役員経験者が、労働(争議)運動の支配権(指導権)を確立(獲得)すること」という全く同じ趣旨の主張をしています。
日本共産党神奈川県委員会が2000年11月8日開催した県委員会総会で、「争議をめぐるいくつかの誤りとそれを克服する正しい指導方向について」と題するレジメが配布され、そこで神奈川争議団や日立、東芝争議についての基本的対応方針が決定されましたが、東芝争議分裂組の総括集や日立神奈川解決金不当請求裁判での中村側の主張は、その決定に基づくものなのです。
ロ.日本共産党・神奈川労連などの介入による分裂とその経過を隠ぺい
東芝賃金差別提訴団への質問について(回答)の文書(東芝資料)には、「2002年6月28日の相談会で神奈川労連から出された『支援共闘会議結成への対応について』では、『支援共闘の中心は神奈川労連が担う』など8項目が文書で示され、また、『議長および事務局長は労働組合から出す』、『東芝争議を支援する会の事務局長が支援共闘会議の事務局長になることは認められない』と説明されました」。と記載されています
この様に神奈川労連は争議の当事者の意向を無視して、このような乱暴な方針を相談会に持ち込み相談会での支援共闘会議結成を妨害したのです。
神奈川労連の妨害は、2002年12月には、「東芝賃金差別提訴団への質問」(2002年12月 発行:神奈川労連)(東芝資料)なる公開質問書という異常な文書を出し、東芝賃金差別提訴団に難くせをつけ、2003年2月1日には、東芝争議支援を凍結する確認を行ったのです。
その後神奈川労連は、2005年1月21日、東芝争議を支援する会とは話し合う意志はないとする文書(2005年1月21日 発行:神奈川労連)(東芝資料)を東芝賃金資格差別提訴団(東芝争議団)に通告し、相談会での支援共闘会議つくりを拒否し、分裂行動を開始したのです。2005年6月16日には、東芝争議団から分裂した3名の争議団員を支援する支援共闘会議を結成したのです。これについては「分裂を決定づけた『東芝争議支援共闘会議』結成への私たちの見解」(2005年6月19日 発行:東芝争議団 東芝争議を支援する会)(東芝資料)の中でその不当性が詳細に書かれています。
一方、それまで東芝賃金差別提訴団(東芝争議団)の弁護を引き受けていた弁護団は、東芝争議団に何の相談もなく、神奈川地労委に申し立てを行った分裂組9名の労働者の弁護を受任しただけでなく、中労委命令を不服として会社が東京地裁に起こした裁判は、それまで受任していた東芝争議団に対し、個人なら受任するが「団」としてでは弁護を引き受けられないと拒否してきたのです。これも神奈川労連などの分裂行動と歩調を合わせたものでした。これについては東芝争議団が岩村智文弁護団長に、「東京地裁代理人受任依頼断念の件」と題する文書(2005年8月1日 発行:東芝争議団)(東芝資料)として明らかにしています。
日本共産党は東芝争議について、党内で会議を開き、東芝争議に対する誤った方針を押付け、分裂させる行為を行っていましたが、その最たる事実は、東芝争議団を排除する神奈川労連中心の支援共闘会議結成に全力をあげて支援した事です。
東芝争議団から分裂した争議団員3名らが参加した神奈川労連中心の分裂支援組織(東芝支援共闘会議)が2005年6月16日結成されました。結成については赤旗が大きく事細かに6月18日付けで報道しています。その内容を抜粋すると
「差別是正を求める争議の全面一括解決をめざす『東芝争議支援共闘会議』が十六日、結成されました。」「結成総会では、全労連の熊谷金道議長が東芝が企業理念として、企業の社会的責任(CSR)を社内外に宣伝していることにふれ・・・全国展開で東芝を包囲し、一刻も早い時期に争議の解決を・・」
また別記事では「菊谷節夫代表委員(神奈川労連議長)は『年内早期解決をめざして奮闘しよう』と訴えました」とあり弁護団の岩村智文弁護士、日本共産党の畑野君枝前参院議員、東京地評の中野謙司常任幹事らが挨拶し、日本共産党からは畑野氏の他に河野幸司県議団長、宮下泉前県議、竹間幸一川崎市議団長、佐野よしあき同市議、西尾りえ子前市議、中島文雄横浜市議も参加したと報道されています。この東芝争議の一方を支援する支援共闘結成集会に日本共産党、全労連、神奈川労連がいかに力を入れたかを物語っています。
ところが「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)の解決を報道した日本共産党機関紙赤旗(2008年4月25日付)では、支援共闘の活動や役割についてほとんど触れていません。また、東芝争議の支援組織結成をめぐって日本共産党や神奈川労連、「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)などが主張した「神奈川労連中心の支援共闘結成」の意義と争議解決に果たした役割について、全く触れられていません。この4月25日付の赤旗には、争議解決した中心は「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)であるかのような報道となっています。
記事の内容は思想差別で勝利解決した争議として、1995年12月の東京電力争議、1997年の中部電力争議、1999年の関西電力争議、2004年の石播・武蔵の争議などが載せられていますが、なぜか同じ電機の職場の日立争議、そして、今回の争議より前の2007年2月に解決した東芝争議団の解決については掲載していません。あたかも東芝の差別争議は今回の解決がはじめてであるかのように、2008年4月に「東芝の96人が中労委で和解」と報道しています。いったいこれはどういうことなのでしょうか。
日本共産党の介入により、当初10人で闘いはじめた東芝争議団のうち3名が分裂行動をとり、これに神奈川労連や「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)が加担し、今まで申立しなかった人たちが地労委に申立するなかで、分裂解決となったのです。赤旗報道は日本共産党の分裂行為を歴史から隠蔽しようとしています。こうした隠すことのできない事実を「真実を報道する赤旗」が掲載しないのは、全くおかしなことです。神奈川の思想差別争議の闘いの歴史から、東芝争議団や日立神奈川争議団の闘いを抹消することで、自らの介入の誤りを隠蔽し、自分たちだけが正しいとする嘘の歴史を作り上げようとしているのではないでしょうか。
「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)の「勝利解決報告集」では分裂の経緯を「2003年1月11日の明るくする会の総会で、第二次申立と東芝差別是正争議支援共闘会議の結成を具体化することの緊急性を確認し、総会の会期を延長して2月16日に続開総会を開催することを、申立人を含む満場一致で決定しました。ところが、10名の申立人のうち7名はこの続開総会を欠席し、同年5月になると1974年に勝利解決した東芝臨時工解雇撤回争議以来の活動の拠点であった川崎市内の明るくする会事務所を突然出て行き、横浜市内の神奈川電力労働者会館内に「東芝争議団」を名乗って事務所を開設しました。明るくする会は、7名の申立人には再三にわたって会への再結集を呼びかけてきました。」と書いていますが事実は逆です。
「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)は、10名で結成された東芝賃金差別提訴団(後に東芝争議団と改称)の決定を無視し、提訴団から分裂した3名の争議団員と後の提訴者のみを支援する分裂組織です。東芝争議団を排除するために日本共産党の意のままに従う「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)で第二次申立と東芝差別是正争議支援共闘会議の結成を決議し、これが正当な差別争議を闘う運動体であるかのように描き東芝争議団が統一を乱す分裂組であると描きだしたものです。
ハ.「画期的内容」と宣伝していますが、解決内容が殆ど明らかになっていません
「処遇をめぐる同種の紛争の再発防止を約束させた画期的な内容」
2008年4月24日「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)ら3者連名の声明】とありますが、赤旗報道でも解決協定書でも解決内容が殆ど書かれていません。赤旗報道は抽象的な解決内容が報道されているだけです。神奈川労連機関紙(2008年5月1日付「神奈川の仲間」)も一面トップ全面を使って「東芝争議が全面解決」「画期的な内容の和解協定」と元気な活字が躍っていますが、この機関紙には解決協定書も掲載されておらず、抽象的な解決内容が羅列されているだけです。
一般的に争議解決にあたっては、賃金がどのくらい差別されていて、どれだけ是正されたのかが明らかにされます。しかし、この分裂組の解決協定書や解決報告、報道には具体的になにも書かれていません。また、「申し立て人12人と差別是正申告者84名が和解協定に調印した」(前記2008年4月24日付声明)と書かれていますが、解決金がいくらかも、もちろん書かれていません。「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)は、彼らより先に解決した東芝争議団の解決に対して、2007年2月17日、「申立人7名の『不当配転・差別争議の和解』について」と題する声明を発表し、東芝争議団の解決に様々な批判を加えています。その要旨は
(1)「これまで東芝が長期にわたっておこなってきた不当労働行為に対する謝罪や反省の意思はまったく示されていません。」「このような東芝の態度は、決して許されるものではありません」
(2)「処遇の見直しについては『今後も、他の従業員と同様に・・・』とされ、これまで東芝がおこなってきた労使協定の限度を超えるような賃金差別、資格昇格や仕事給職群・等級の差別、一切の役職への登用拒否など不当な差別扱いに対する償いと是正については明記されていません」
(3)「協定書に記載されていませんが、共に組合活動をおこない同様に差別を受けてきた申立外の労働者に対する差別の償いと是正についても、東芝には大きな責任があります」
として、この不十分な解決を乗り越えるべく奮闘するとしています。
実際彼らの解決はどうだったのでしょうか。「提訴外者への是正を行わせる」などと言っていましたが、提訴外者への解決金がいくらなのか、是正は行われたのか、一人いくらなのかも協定書を見てもわかりません。これでは、資本の不当な攻撃に対し具体的成果をあげたことがわかりませんし、闘いの財産にもなりません。
あれほど日本共産党や神奈川労連が批判した日立神奈川争議では、解決内容を総括集に個々人の差別是正金額や解決金1億4千万円を払わせたこと、争議当事者や提訴外者の職級のアップと是正金額、退職金の是正など具体的に明らかにしていますが、「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)の解決内容は殆どと言っていいくらい公表されていません。
「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)が出した2007年2月17日の東芝争議団批判の声明は、そのまま自分たちの解決内容に当てはまるものではないでしょうか。まさに「天につばする」とはこういう事を言うのでしょう。
2008年4月24日の解決時に声明などが発表されましたが、その時点では東芝争議の「分裂」の事や東芝争議団の事などは書かれていませんでした。
東芝争議団が解決したのは2007年2月14日で、その総括集「凛と立つ」は2008年5月31日、東芝争議総括集発刊記念レセプションの中で公表されました。一方分裂組の解決は2008年4月24日、争議報告集は、2008年7月5日発刊と記されています。
その争議総括集「人権を守り差別のない職場に」は、2008年4月24日の解決時には書かれていなかったいくつもの、東芝争議団批判が書かれています。報告集18ページには、支援共闘会議岡本事務局長のメッセージが載せられ
「神奈川では日立争議が終盤をむかえた2000年頃から大企業争議の中に、全労連を軽視し誹謗する流れが発生し、この流れが東芝争議にも広がり、支援共闘の位置づけや申立外の扱いなどをめぐり重大な分裂が持ち込まれました。
明るくする会は、この流れを克服する為に、03年3月から次々と9名の追加提訴を行いました。」「不正常な流れ克服する為にも、神奈川労連が支援共闘をつくるイニシアチブをとろうと意思統一し、東芝の主要事業所のある全国および県内の地方労連、地域労連、県内主要産別などの参加を得て、05年6月に支援共闘会議を立ち上げました。」「分裂していった人たちが最近総括集(報告書)をつくり、記念レセプションを開きました。しかし、どちらの言い分が正しいかは、争議解決の協定書とそれを報じた新聞記事を見れば明白です」
と「どちらの言い分が正しいか」などと書いていますが、解決協定書や新聞記事を見ても明らかではありませんし、何を言わんとしているかもわかりません。
またこの文面からもこの報告集や岡本談話が、東芝争議団の総括集が発刊されたあとに書かれたものであることが解ります。
2008年4月24日時点では、東芝争議団の解決については赤旗、「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)などは東芝争議団の解決を一様に伏せる態度をとっていました。2008年5月1日付け神奈川労連の機関紙「神奈川の仲間」も東芝争議団については書かれていません。東芝争議団が総括集を発行し、その中で、神奈川労連との関係についての事実関係を公表するとあわてて、それに反論する文書を報告集に載せたのです。ここに彼らの意図を見ることが出来ます。彼らは、自分たちが行った東芝争議に対する不当な介入の事実を伏せて、8年以上たった今日、誰もこれを問題にしないのであれば、「臭いものにはフタ」で、介入問題には触れないで、ごまかそうとしていたのです。ところが、東芝争議団の総括集で神奈川労連の不当な介入の事実経過が明らかにされると、事実を誤魔化すためにも、「反論」を書くことにしたのでしょう。
ところで、この分裂組の報告集には日本共産党の大衆運動への介入については一切書かれていません。自らが日本共産党の方針に従っておこなったのですから、書ける筈もありませんが。
ところで、分裂組が争議解決にあたって出した彼らの争議総括集「人権を守り差別のない職場に」は申立人と会員の声として次のような職場からの意見が載せられています。
報告 A「東芝差別争議の勝利について」
「・・・差別是正争議が勝利したとはいえ、とりわけ(府)の賃金・資格差別がひどかったため、私の是正後の賃金は281,700円。そして和解の基本合意後、各人の賃金是正の話し合いの中で会社は入社以来長期にわたって勤務率がよくないとでっち上げ、私に対する是正要求を全面的に受け入れなかった話を聞き、「差別したことへの反省が全くない!」と、新たな怒りをもちました。なお、5月22日にGPM(課長)との面談がありましたが、差別について話したら「『過去の差別については一切知らない』『現在は全く差別をしていない』との態度で、ここ数年の勤務率が100%でないことを楯にとり、『挑戦的な態度だ。重要な仕事はさせられない』と逆ギレされました。・・・」
報告 B「差別された賃金・処遇は、どこまで回復したか?」
「和解によって争議は終結した。しかし、今まで受けてきた賃金・処遇の差別はどこまで回復したのだろうか。解決に名前が載った96名中で現役は25名であり、既に退職した71名(約3/4)の人達へは一切賃金・処遇の是正が出来ないのである。1960年代から70年代にかけて差別を受けたのに25年後になってやっと申立て・・・・。退職金・年金の是正を取れなかった。・・・」
「差別の是正と償い、および組合活動や思想信条による差別など同種の紛争の再発を防止する協定を実現して・・・画期的な成果をあげることができました。」(争議解決報告集P4)と大々的に宣伝されていますが、この職場の報告とは大きくかけ離れています。
弁護士の談話もひどいものです。H弁護士は「最後の労働事件」と題する談話を寄せ、東芝争議団のU氏(報告集では実名が書かれている。東芝争議団員)を名指し、
「1次申立の担当はUさんだった。Uさんの主尋問と会社側松田証人の反対尋問も担当した。この準備も緻密に行った。いずれも手応えのある尋問結果を残せたと思う。それだけ本気になって担当した事件だけに、1次申立人らから信用されていないと感じたとき、本当に情けなかった。一般事件でもこれほど依頼者から裏切られたことはない。だから、私は、この東芝差別事件から手を引き、その裏切りの背景から全労働事件からも一切手を引くことを決意した。」
と書いています。日本共産党の争議運動への介入、それに追随して、一方の原告の弁護を拒否したことから壊れた申立人との信頼関係を、あたかも自分は正しいが申立人は裏切り者であるかのような傲慢な主張をし、労働事件を今後一切行わないと宣言しています。これは、東電事件の時に、争議支援共闘に対して拙劣な口実で批判し、自らは「労働事件ノーサンキュー」と自由法曹団神奈川支部ニュースに投稿して失笑をかった日立神奈川解決金不当請求裁判中村側の勝山弁護士と同様の内容です。これでは、自由法曹団はじめ労働弁護士が労働者の権利を守り頼れる味方になれるか心配です。弁護士・弁護団の政党からの独立と傲慢さを反省する課題があるのではないでしょうか。
ヘ.おわりに
日立争議では全労連中心でなければならない、全労連と一緒にやらなければいけない、全労連も大企業争議を解決させることが出来るようになったとして、全労連が神奈川を除いて1都2県の支援組織の中心に座り、支援共闘組織を結成しましたが、日立神奈川争議団や同支援共闘会議から全労連の誤りを指摘され、東芝争議では当初の方針を変え、全労連は支援共闘組織の構成団体に加わらず、東芝の事業所がある各地方労連を支援共闘組織に参加させました。
しかし、「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)の解決にあたって赤旗などは全労連や神奈川労連が解決の中心的役割を果たしたとは報道していません。また岩村弁護士などは、争議解決報告集で
「まず、注目すべきは、『人権を守り差別のない明るい職場をつくる東芝の会』が、和解協定の当事者となって会社と調印したことです。東芝から和解の主体と認められたのです。」
などと「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)が主体になって解決したかのように見せかける発言がされています。
支援共闘会議は争議解決に重要な役割を果たしますが東芝争議分裂組の支援共闘会議の結成の経過を明らかにすると、日本共産党の指導のもとに神奈川労連や自由法曹団の弁護士が分裂行動をとった一方の側の争議団員を支援し、東芝争議団を分裂させたことが明らかになってしまいます。それを隠すために和解協定の調印を「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)にし、仰々しく宣伝したのが真実ではないのでしょうか。
あれほど日立争議や東芝争議の支援組織作りの時には、全労連と一緒にやる事が重要だ、やらないのは全労連を誹謗する事だと全労連中心の支援組織、全労連中心の闘いと強調されたのはどうしたのでしょうか。日立争議ではこの問題で私達を徹底的に攻撃し、組織的排除までおこなったのです。
日本共産党は“転籍に応じてそこで党勢拡大をやるのが党員の任務”などと誤った指導を行い、分裂組は会社のリストラ「合理化」攻撃である転籍や出向と闘う方針をとりませんでした。日本共産党や神奈川労連と一体となった弁護士は個人申立を口実に「団員一人一人なら受任するが団としては受任しない」と争議団を否認し団に分断を持ち込み分裂組の争議の弁護を引き受け、東芝争議団の弁護を辞任したことも明らかになっていません。
日本共産党の方針を忠実に実行し、東芝提訴団を分裂させるなどの、役割を表面的には果たした、「東芝の職場を明るくする会」(東芝争議分裂組)があたかもこの争議を闘った中心であるかのように描きだして、日本共産党、神奈川労連、自由法曹団の弁護士の誤りを隠蔽してしまっているのです。
こうした自分たちの行った歴史的事実を隠して、誤りを認めず、あたかも自分たちは正しいことをやってきたのだと誤魔化すやり方が、日本共産党の無謬主義としてこれまで批判されてきたのではないのでしょうか。
これらの事実からも日本共産党、自由法曹団の弁護士、神奈川労連などはその誤りを認め改めるべきです。