題名 意見

 (他組織からの)「支配介入」は、その目的や程度、方法の如何に

関わらず、被「支配介入」組織と「支配介入」組織に真の発展を

もたらせないものです。

 換言すれば、「支配介入」行為には、「適正化」も「最適化」図れない

ものといえます。

 事実は、「支配介入」行為によって「支配介入」組織と被「支配介入」

組織に、甚大な損失をもたらしました。

題名 参考資料

共和国軍の混迷 [編集]

共和国軍を率いるバレンティン・ゴンサレス。後に国際旅団を指揮。

一方、共和国軍(反ファシズム)側の足並みはそろわなかった。そもそも、労働者達は軍を敵視していたから、戦場でも共和国軍に留まった軍人の進言に耳を貸さなかった。一方、反乱軍は軍隊組織の秩序を維持していたから、しばしば物量に勝る共和国軍を破った。さらに、民兵達は党派ごとに指揮系統もバラバラで、他党派の軍勢が負けると互いに喜ぶといった有様だった。緒戦の敗退から、ようやく共和国軍も軍隊の再建に乗り出したが、その過程でスペイン共産党が、ソ連の援助もあって共和国軍の主導権を握ることになる。

急進的労働組合であり労働者自治(アナルコ・サンディカリズム)革命を志向する全国労働連合とイベリア・アナーキスト連盟(CNTFAI)は、反スターリンの立場を取る左翼政党マルクス主義統一労働党POUM)と協力し、統治下の地域で社会主義的な政策を導入しようとした。バルセロナでは、労働者による工場等の接収もみられた。

当時スペイン銀行外貨準備用にを保有しており、保有量は約710トンで当時世界3位と推定されていた。しかし、反乱軍の手に渡らないよう、適当な保管場所に移す必要があるという話が持ち上がった。また、この金は、英仏の不干渉政策によって、武器購入の信用取引ができなくなっていたため、現金購入の資金として、外貨調達を行うために使われた。そこで、両方の目的のため、共和国側が抑えていた唯一の海軍基地であるカルタヘナの洞窟に移された。

当初はカルタヘナからフランス銀行へ金を輸送し、そこで外貨を調達した。輸送量は200トンに上ったが、輸送の遅れやフランス銀行からの資金受け渡し認可に手間取ったため、武器調達ははかどらなかった。しかも、イギリスの銀行は、この取引を「歓迎すべからざる目的」と見なして、資金引き渡しの怠業を行った[1]。また、反乱軍は資金の受け取りを「マルクス主義者一味との恐るべき共同犯罪」であり、「略奪」行為であり、銀行基本法に抵触すると喧伝し、訴訟などちらつかせ各国の銀行を牽制した。こうした情勢から、親ソ派を中心にソ連への金移送が持ち上がり、ソ連も渡りに船とこれに応じた。しかしアサーニャに事前の相談はなかったといわれている。

ソ連に輸送された金は約510.08トンにのぼり、当時の価値で5ドルを超えた。その多くは金塊ではなく各国の金貨だった。また、骨董的価値のある金貨も少なからず存在した。共和国の支援国ソ連は武器・人員を援助したが、それらの支援は有償であり、また、金の一部でアメリカとチェコから自動車を調達してスペインに送っている。戦後、『プラウダ』は19574月5号でスペインは金を使い果たしたばかりか、5000万ドルの借款がソ連に対して残っていると主張したが、ソ連側は取引の明細を公開しなかったため信用されておらず、ソ連が金を横領したという批判も受けている[2]。現在では、ソ連から直接送り出された物資、各種兵器は4700万ルーブル分となっているが、これにはソ連が外国で調達した物資が含まれておらず、また、輸送途中でフランコ側海軍に阻止された分が含まれていない可能性もある[3]。いずれにせよ、共和国は資金を丸ごとソ連に差し出した形になり、ソ連に対してばかりか、第三国の武器禁輸を解くための交渉能力も失った。また、人民戦線内閣の崩壊直前にも、恐らくはフランコ政権へのあてつけのために金塊が運び出されている。これらの金塊に関しては、フランコ政権とソ連が国交回復したおり、返還について協議がもたれたようであるが、詳細は不明確である。

写真はソ連貨物船「クルスク」。193612月に支援物資をアリカンテ港に荷卸し中の写真。

 更にソ連は人民戦線の指揮権を掌握することを目論み(人民戦線の内部抗争に辟易したためとも言われる)、軍事顧問などに偽装したNKVDが現地に派遣され、ソ連及びスペイン共産党の方針に反対する勢力を次々に逮捕・処刑した。スペイン共産党は内戦以前は極少数党派にすぎず、左翼は圧倒的にバクーニンアナキストCNTFAIによって占められていたが、最大の援助国ソ連の意向によって内戦の進展とともに共産党は次第に勢力を拡大していった。これらの非マルクス主義、あるいは非スターリン主義マルクス主義の左翼組織はコミンテルンに同調しなかったため、コミンテルンの統制下にあったスペイン共産党は彼らをトロツキストと批判し、内部対立を深めた。さらに、スペイン共産党側はマルクス主義統一労働党がフランコ側に内通しているとする証拠を偽造し、一気に潰そうとしたが失敗した。

第四インターナショナルのスペイン支部は、スターリン主義共産党のみならず、マルクス主義統一労働党やCNTFAIの日和見主義をも批判したが、その勢力は数十名(しかもほとんどが外国人)を超えることはなく、革命に現実的な影響力を及ぼすことはできなかった。

19375月、バルセロナで遂に両勢力が衝突へと至り、500名近くの死傷者を出す惨事となった。共産党側は反対派を暗殺で脅したが、相次ぐ内ゲバに内外の反発を買ったばかりか、地域政党とも共同歩調をとることが困難であった。しかし、イギリス・フランスなど他国が不介入政策を採り続けたため、ソ連に頼らざるを得ない状況だった。

国際的情勢は、さらにフランコに有利なものとなった。カトリック教会を擁護する姿勢をとったことでローマ教会はフランコに好意的な姿勢をみせ、19386月にローマ教皇庁が同政権を容認した(実際には、これ以前にもこの後も、フランコ軍は平然と教会に対する砲爆撃を行っている)。共和国側の残された願いは、第二次世界大戦が勃発してファシズム対反ファシズムの対立構図がヨーロッパ全体に広がり、国際的支援をとりつけることであったが、9月のミュンヘン会談でイギリス・フランスがファシズム勢力に対する宥和政策を継続することが明白となり、この期待もくじかれた。イギリス・フランスはファシズム勢力がソ連ら共産主義勢力と対立することを期待しており、ソ連の支援を受けた人民戦線に味方してもソ連という敵に塩を送ることになるばかりか、世界大戦の引き金となると考えていたのである。

人民戦線最後の攻勢と内戦の終結 [編集]

193811月時点の勢力圏

19387月、人民戦線側は南北に分断された支配地域を回復しようと、エプロ川で攻勢に出る(エブロ川の戦い)。カタルーニャ側の人民戦線が総力を結集したことにより、戦闘の当初は人民戦線側が大きく前進するが、反乱軍が増援を送り込んだことによって戦線は膠着状態となり、やがて人民戦線側はずるずると後退していった。両軍ともに甚大な打撃を受けたが、共和国側はフランコ側の約2倍の死者を出し、もはやカタルーニャ側の人民戦線政府は勢力を消耗し尽くしてしまった。

193812月より、フランコは30万の軍勢でカタルーニャを攻撃、翌19391月末にバルセロナを陥落させた。人民戦線側を支持する多くの市民が、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた。2月末にはイギリス・フランスがフランコ政権を国家承認し、アサーニャは大統領辞任を余儀なくされた。

フランコ側は3月に内戦の最終的勝利を目指してマドリードに進撃を開始、それに対して人民戦線側は徹底抗戦を目指すスペイン共産党と、もはや戦意を喪失したアナーキストの内紛が発生するなど四分五裂の状態に陥って瓦解した。41日にフランコによって勝利宣言が出された。

国際旅団 [編集]

多くの国際的社会主義組織を始めとする反ファシズム運動が、この戦争に当たって結束した。国際旅団が組織され、アーネスト・ヘミングウェイ、後にフランス文相となったアンドレ・マルローなどが参加、日本人ではジャック白井という人物が19377月にブルネテの戦いで戦死している。ただし、結成にはコミンテルンが深く関わっており、構成員は知識人や学生20%、労働者80%で(人口構成を考えれば特に異常ではない[要出典])、また全構成員の60-85%は共産党員だった。さらに、戦闘で消耗を重ねた結果、末期には国際旅団といいながら兵士の大多数がスペイン人に置き換わっていた部隊もあったと言われる(三野正洋「スペイン戦争」)。戦争終結直前に国際旅団は、イギリス外務省の「外国兵力を双方とも同程度撤退させる」との提案に従い解散した。人民戦線にとって厳しい戦局の中でのこの決断は、国際旅団がもはや助けではなく重荷になっていたからだと考えられる。

戦後 [編集]

内戦に勝利したフランコ側は、人民戦線派の残党に対して激しい弾圧を加えた。軍事法廷は人民戦線派の約5万人に死刑判決を出し、その半数を実際に処刑した。特に自治権を求めて人民戦線側に就いたバスクとカタルーニャに対しては、バスク語カタルーニャ語の公的な場での使用を禁じるなど、その自治の要求を圧殺した。そのため、人民戦線側の残党の中から多くの国外亡命者が出たほか、ETAなど反政府テロ組織の結成を招いた。カタルーニャからは冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出たが、その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがナチス・ドイツによって占領されたため、彼らの運命は過酷であった。また、国家として人民戦線側を支援した数少ない国の一つであるメキシコは、ラサロ・カルデナス政権の下、知識人や技術者を中心に合計約1万人の亡命者を受け入れた。亡命者は知識階級中心だったので、彼らがメキシコで果たした文化的な役割は非常に大きいものがあった。例えばメキシコ出版業界の元締めであるフォンド・デ・クルトゥーラ・エコノミカ社は、亡命スペイン人達によって設立された。

第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続いた。フランコの腹心で後継者を予定されていたルイス・カレーロ・ブランコは、米ソの東西冷戦を見て、人民戦線の残党を弾圧しても、共産主義の招来を恐れる西欧諸国は非難こそすれ、実効的な圧力を受けることはないから気にせず弾圧すればいいと進言したという(後にブランコはETAによって暗殺された)。

共和国政府は「スペイン共和国亡命政府 (en) として、メキシコ、次いでパリにて存続。1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1が独裁政治を受け継がず、1977年6月15日のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保った。同年6月21、亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレス (en) が政府の解消を宣言。7月1、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされた。

解散、その後

19389月21、ファン・ネグリン率いるスペイン共和国政府は、国際旅団の解散を命令した。当時、戦局は反乱軍優位に傾いており、国際連盟も解散を命令していた。さらに、スターリンソビエト連邦も、ドイツとの政治的な駆け引きのため、撤退を指示した。

解散後、義勇兵のうち1万人はスペインにとどまり、終戦まで戦い続けた。このうち半分以上は、ドイツ、イタリア、ハンガリーといったファシズムの支配下にある国々からの義勇兵だった。彼らにはスペインの市民権が与えられ、共和国軍兵士と同額の給料を支給された。

元義勇兵の証言によると、イギリスやアメリカ合衆国に帰国した兵士のうち、元の職業に戻ることができたのは1割に満たないという。さらに1939、ドイツとソ連が独ソ不可侵条約を締結すると、元義勇兵の間では信頼していたソ連に対する不信感が広がった。

第二次世界大戦が勃発すると、アメリカ合衆国の多くの元義勇兵たちは、元の敵であるドイツ・イタリアと戦うため陸海軍に志願したが、米政府は彼らを危険な共産主義者とみて1944ごろまで戦場に投入しなかった。1950年代冷戦が始まると、ジョセフ・マッカーシー上院議員による赤狩りが始まり、多数の元義勇兵が投獄されたり職を奪われた。また、ソ連や東欧諸国でも、多くの元義勇兵が「トロツキスト」のレッテルを貼られ粛清された。

 

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