―― 日立神奈川争議第二次総括集より ――
男女差別事件をめぐって
大企業日立を相手にする闘いは、1都3県で、解雇事件、昇格差別事件、サービス残業事件、男女差別事件などが闘われており、神奈川はこの争議がまとまって闘えるように最後まで努力を尽くしました。
全労連が当初の約束を反故にして闘いを分断させたことについては、総括集①で詳しく事実を書きましたが、原告団に所属していた中村問題が当時は未解決であったことから詳細を報告することができませんでした。そこで今回は、男女差別事件の中で起こった様々な問題についても明らかにして報告をします。
日立の争議団は96年には全面一括解決を決めていたにも関わらず、97年に中央研究所提訴団が中労委和解に独断で入っていったことに最初の亀裂が生じました。男女差別原告の堀口、足立両名は中研提訴団にも加わっており、会社は二人に対し男女差別裁判を降ろすように求めてきました。
男女差別原告団長でもある堀口氏は、「先に二人がいい解決をして、残った原告も同じような解決をするように会社に話す」と主張したが、神奈川の原告は、団は一つであり9人一緒に解決しようと主張しました。
中研提訴団が和解交渉の中で他の争議団も含め、要求書を出すと会社と約束したことが発覚し、東京、茨城、愛知の争議団は今がチャンスと和解に加わっていきました。男女差別事件も東京の5人は団を割ってでも加わると言い、堀口団長は重大な決意をしたと言い、神奈川と別れて中労委和解交渉に入っていってしまいました。
そのとき、坂本福子弁護士を中心とした弁護団は口をそろえて神奈川の4人も一緒にやるようにと説得にかかりました。会社が解決しようと言うことは滅多にない、今がチャンスだ。全労連がまとめれば運動も広がる。裁判をやっても勝てない、特に技能職は男性も昇格していない人が多く勝てない。勝てない裁判はしたくない。和解で解決した方がいい。このまま裁判を続ければ高裁、最高裁とまだまだ続く。定年までには終わらない。もし、神奈川が裁判を続けるのなら、弁護団辞任を考えるとまで迫ってきました。
そして、会社側あら探し証人が終わってからと言うものは和解の状況を見たいからと事実上裁判を止めてしまいました。神奈川の原告は「和解も闘い」だから、交渉中も裁判を続けるようにと主張し、東京が解決してしまってから裁判を再開したのでは判決が遅くなると言い、再開を求めましたが、弁護団は無意味に再開を延ばしてしまいました。
東京の5人が解決し、裁判を取り下げたあとも、なかなか裁判が再開されず、弁護士は判決を出されたら負ける、どう裁判を引き延ばすかということに気を遣い、裁判所は東京が和解したので、できれば神奈川も話し合いで解決できないものかと言い、会社も話し合いで解決したいと言っているとして積極的に裁判を開こうという感じは見られませんでした。
東京が解決した後、神奈川は法廷関係にも力を入れ、たとえ判決が出ても勝つ構えでやろうと弁護団会議や3者協議にも支援共闘が参加をし、法廷対策会議を持ち、立証の洗い直しや、職場の人に陳述書を書いてもらうなど具体的に対策を立てていき、原告の陳述書作りにも支援共闘は力を注ぎました。
総論関係では時間的にも、内容的にも立証が薄く、賃金関係については堀口氏が最後に立証するとしていたため、まだ立証していなかったことから、支援共闘は裁判に勝つためには総論で会社の差別意図や差別の仕組みをきちんと立証すべきとし、団と一緒に証拠の洗い直しをし、理論的にまとめる中で、総論プロジェクトを作ることを弁護団に呼びかけましたが、受け入れられないまま総論は後回しになってしまいました。
また、止まっていた裁判を再開するために、「日立の男女差別裁判の公正判決を求める要請書」という団体署名を取り組みました。最初弁護団は裁判所に出す文書は弁護団が責任を持ちたいとして、文面をチェックし、まとめてくれました。しかし、支援組織であるはずの「男女差別をなくす会」は、会社向けの署名として取り組まないのなら名前を連ねないと決定し、神奈川労連も、「なくす会」と「弁護団」が反対しているので署名の推薦者になれないと言いだす中で、坂本福子弁護士を中心とした弁護団に再度確認すると「公正な判決を求めるのは時期尚早」と言いだし、まだ判決をとる段階ではないというように態度を変えました。
神奈川の原告と支援共闘は、会社との話し合いを進めると同時に裁判も重視してこの署名運動を取り組むことに決め、全国的なオルグの取り組みを決めました。
ところが、神奈川労連は原告の話を聞こうともせずに、オルグをしようとしている都県の労連に対し、神奈川労連としては取り組まないという文書をFAXして運動を妨害しました。
このような事情で全国へのオルグ行動は困難になりましたが、話を聞いてくれる県労連もあり、自覚的な労働組合や団体から短期のうちに1300団体もの署名を寄せていただきました。私たちは集まった署名を持って裁判所要請を繰り返し、訴えました。そして裁判長の心を動かし、原告がそこまで望むなら原告の気持ちを尊重して裁判を続けましょうと、1年ぶりに裁判を再開させることができました。01年4月26日、法廷に溢れる傍聴者の見守る中で裁判は再開されましたが、困難な中でも支援共闘と団が団結し、闘って勝ちとった大切な勝利です。
そして、01年3月21日から自主交渉(会社と支援共闘と団による直接交渉)が始まりましたが、和解交渉中だからと裁判を止めるのではなく、裁判を続けながら交渉にのぞんだことにより、重要な局面で交渉を有利に進めることができました。このことが、02年7月29日の全面解決の大きな力になったといえます。
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