たたかいの中で起きた様々な問題と不当介入

1 日立争議をめぐる問題について(どうしてこうなったのか)
 「日立争議は生まれも育ちも違っていて顔も違う。そういう争議が一緒に解決できるのか」と言った意見もありました。しかし、半世紀にもわたって争議が闘われてきた中で、職場における差別争議を自ら立ち上げ1都2県、8争議でたたかってきました。このような中で神奈川地労委でサービス残業事件が全面勝利したことが日立争議の全面一括解決の機運を高めました。日立争議のその後の進展と、当初、予想も出来なかった今日の事態はこの方針とその具体化から始まりました。以下に時系列的にポイントをあげて振り返ってみて何故、このような事態に行き着いたのかを分析するものです。

 日立7争議に先駆けて日立横浜サービス残業事件が1995年6月、神奈川地労委で全面勝利命令を取りました。それを契機にそれまでばらばらに進めていた日立争議の解決方向を決めようとする機運が高まりました。
・1995年 6月27日‥神奈川地労委にてサービス残業事件 全面勝利命令
・1995年 9月23日‥日立争議支援連絡会結成
・1996年 4月27~28日‥全日立争議の泊まり込み会議を戸塚サンライフ横浜で開き、解決方針については様々な意見が出されましたが「日立争議の全面一括解決」を求めて運動を進めることが確認されました。その後、各県レベルの支援共闘組織を結成し、中央連絡会組織を結成して日立争議の全面一括解決をしてゆくという方向に基づいて各都県で支援組織を97年末までには結成しました (神奈川の支援共闘は1997年11月結成)。
・1998年 2月11日‥日立争議の一括解決を求めて1都3県(神奈川・東京・茨城・愛知)の支援共闘代表が話し合いに入りました。しかし、一都二県と神奈川との間では中央連絡会のあり方 (全労連を中心に据えるのか、都県の代表が対等平等で運営するのか)、訴外者の取り扱い、関連会社の問題、先行和解解決交渉に入っていた中央研究所争議と会社・中労委とのチャンネル問題、解決要求書の提出時期、リストラ合理化とのたたかい、等、意見の一致しない多くの問題が有りました。会議は6回持たれましたが1999年1月、一都二県は神奈川からの「協議が充分行われていない」という主張を無視して神奈川が不参加のままの会議を開催して一都二県の先行解決方針を決めました。
・1999年 1月30日‥日立争議団共闘会議第8回総会で一都二県争議の先行解決を決定(神奈川は多数決決定に先立って退席‥中村氏は議長でそのまま)。
・1999年 3月16日‥日立共同要求提出争議団(44名)として中労委へ要求書提出
           夜‥日立争議支援中央連絡会(準備会)結成、全労連も入った中央連絡会を結成し、その後の団結を困難にした。
・1999年 7月29日‥神奈川の団結案を全労連大会の席上で西川副議長に手渡す。
・2000年 3月 7日‥全労連・一都二県原告代表・神奈川原告代表で合意文書作成
・ 同  年 3月28日‥全労連副議長 合意文書を反故にする。
・ 同  年 5月 2日‥一都二県 中労委裁定出る (賃金是正)
・ 同  年 5月16日‥神奈川地労委にて賃金・昇格差別事件が全面勝利命令
・ 同  年 9月12日‥一都二県争議解決
・ 同  年 9月15日・16日‥神奈川労連幹事会は「日立争議の経過と今後の対応について」という文書で「今後の日立争議の支援は是々非々で対応する」ことを確認。
・2001年 3月21日‥日立神奈川争議 第1回自主交渉
・ 同  年 5月 9日‥神奈川労連、支援共闘から脱退
・2002年 2月26日‥中労委第1回和解交渉
・ 同  年 7月29日‥中労委和解解決

経過分析
①日立8争議が一括解決を方針として決めたことは当時の争議状況からみて当然の方向であった。
②1995年9月に結成した「日立争議支援連絡会」は統一解決の機運の中で結成され統一の機運を促進した。しかし、解決の方法を巡って度々神奈川と東京は衝突した。中研・あるいは東京事件の都労委命令日に合わせて「本連絡会を中央連絡会議にしょう」等
③一括解決方針から夫々の都県に支援共闘組織を結成し、中央連絡会組織の結成に向けて6回の会議を持って話し合いをしたが、上記のごとく纏まらなかった。
 ・東京・茨城・愛知は全労連を中心にすべきという意見に固執した。神奈川は夫々の都県の支援組織の代表で対等・平等で運営することを主張した。
 ・この議論は日立争議団共闘会議での原告団の議論でも同じであった。
 ・「全労連を中心にすべき」とする意見では、(イ)全国的に大きな支援を受けられる。(ロ)財政的にも支援を受けれる。(ハ)既に田中争議は全国一般争議として全労連議長が田中支援共闘会議の議長についている。 等の理由を上げた。
 神奈川は、(イ)全労連の支援を受ける。(ロ)しかし、中央連絡会の運営は各都県の支援組織の代表で対等・平等で運営し、事務局長体制にすべきだ。各都県の支援組織は各都県にある日立争議を勝たせるために結成したもので、その意思を持つた代表で構成することが当然だ。(ハ)全労連が個別争議の支援共闘の中心に座ることでは明確な基準がないこと、要請しても座ってもらえない争議団からみれば不公平等で争議団相互に不団結を引き起こしかねないこと、日立争議の場合、田中争議では全労連が中心に座っているので田中争議の代表として出ることは出来ると主張した。
 ・東京中心主義、全労連ヘゲモニー主義、覇権主義等が基本問題として出され話が纏まりませんでした。この傾向はこの後の進展にも顕著に表れ統一を困難にする最大の要因となりました。
 ・全労連は結成10年を迎えたことについて「ナショナルセンターの役割を担う」という話も出され「大企業争議の中心に座る」ということも言外に出されてきました。一都二県争議と神奈川が統一して進む機会は数回ありました。しかし、統一の機会は潰されました。
 ・一都二県と神奈川が分かれて解決する方向が決定的になった時、神奈川は「神奈川争議の解決に全力を尽くす」という当然の方針を持ちました。しかし、神奈川労連は一都二県争議と一緒に解決しなかった神奈川争議を「是々非々支援」とし、事実上支援をしなくなりました。一都二県の解決後、神奈川労連や一部の単産・民主団体などが「総会を開かない非民主的運営」等を理由に「日立争議を支援しない」と決議する等の困難な事態が生じました。これは、前記したように「従わない者は支援しない」という神奈川労連が覇権主義的傾向を強める中で生じました。

 このようななかで、神奈川労連の日立神奈川争議に関する考え方が最悪の結果となって現れたのが02年11月30日の「日立神奈川争議全面解決報告集会」に対する「参加することは不適切」とした方針とそれを徹底しようとした行動でした。そして、03年2月1日、日立神奈川争議団から脱落し、個別解決した宮崎氏の「日立・宮崎争議勝利報告集会」が神奈川労連代表、日本共産党神奈川県委員会県央地区委員長を含む実行委員会を結成し、神奈川労連幹事会終了後、同会場で開かれたことです。
 私たちのたたかいは、自らの要求実現と職場の要求の実現をめざし、職場の自由と民主主義の前進をめざし、自主的・主体的なたたかいを進め、神奈川で培ってきた反合権利闘争の教訓と経験が生かされ、また、弁護士の献身的奮闘に支えられ、多くの方々の支援を得て争議の解決をすることができました。私たちの闘いの方向に間違いが無かったことに確信を持って報告すると共に、争議運動及び労働組合運動の今後のあり方に一石を投じるものです。

(1)神奈川労連の支援共闘離脱と一部の労組・民主団体との問題

 01年5月9日の神奈川労連第15回幹事会は「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』の問題」とする文書と共に日立神奈川支援共闘からの離脱を確認し、脱退しました。この文書のなかで

3.これ以上「日立神奈川支援共闘会議」に留まることはもはや困難ですと述べて
(1)神奈川労連は県内主要大企業である日立のなかで人権侵害と差別に反対する争議団の要求を支持しその実現のために「神奈川支援共闘会議」に参加してきました。そして全国との統一と団結について「要求での一致」を重視した努力を重ね、1都2県解決後も早期勝利解決のために経過を棚上げにして、「共闘会議」の民主的運営を求めつつ支援の行動に参加してきました。地域総行動などでは自治体へ「日立に対して公共事業の発注停止要求運動」もとりくみました。しかし「日立神奈川争議団」と「神奈川支援共闘会議」が「日立とすべての職場から男女差別をなくす会」や神奈川労連の「同意を得る努力」をしないで「神奈川労連と全労連批判を全県、全国に広げている」事態にあたって、もはや「支援共闘会議」に留まることは神奈川労連の団結上も困難になっています。又全労連の加盟組織として全国の単産地方組織との団結を前進させるうえでも、神奈川労連幹事会は「支援共闘会議」からの離脱を明らかにしたうえで、今後日立争議団に対応していきます。
 と離脱に至った理由を述べています。
 この文書は直後に神奈川争議団共闘会議にも届けられました。この文書の主張に対しては後段の資料集に添付してある『「日立争議の経過と今後の対応について」と題する神奈川労連文書等に対する見解』及び「日立闘争の経過 全労連、一都二県との関係を中心に」、「日立男女差別裁判の公正判決を求める団体署名に対する神奈川労連の対応について」の文書で基本的な反論をしてきましたが、神奈川労連のこの文書は団・支援共闘の反論に応えることなく再度、同様の主張を繰り返したものでした。
 この文書は、日立神奈川争議団が01年3月より自主交渉に入っていて争議の解決に向けた重要局面で出されたもので「日立神奈川争議団の解体と敗北を決定付けようとするもの」と受け止めました。
神奈川労連の文書は
1.意識的か否かは別として事実誤認の多い文書であること。
2.日立神奈川争議団及び日立争議団共闘会議の内部問題を当該団の責任者に何ら確認することなく記載し、内部事情を歪曲していること。
3.日立閲争神奈川支援共闘会議・団に悪罵を投げるもので貫かれていること。が特徴となっているものです。
神奈川労連の離脱及びその文書は当該の団・支援共闘のみならず神奈川争議団共闘会議神奈川の労働運動及び民主的運動に否定的な状況をもたらし、一層複雑に進行するものとなりました。
神奈川争議団等との定期協議の場で、神奈川労連は労連決定で傘下の単産や地域労連など他を縛ることはしないといっていましたが神奈川労連の離脱直後に新婦人神奈川県本部が同じく離脱通告をして脱退しました。また、神奈川自治労連県本部は神奈川争議団の議長が日立神奈川争議団の責任者であるとして神奈川争議団の行動にすら参加しないという文書を出しました。また、横浜労連の離脱や神奈川の全国一般、医労連などの単産が日立争議を支援しない決議をし、支援を続ける単産内部でも様々な意見が交わされました。この状況は日立争議の総括集を発行する現在でも一層深刻に進行しています。

(2)政党との問題

 日立神奈川争議が直面している深刻な事態に日本共産党との問題があります。争議をたたかう原点は共産党員の活動を嫌ってあらゆる差別をしている日立に対して、憲法で保障する思想・信条の自由を認めさせ、職場の自由と民主主義を前進させることでした。
このためにこそ困難なたたかいに立ち上がったものですが、しかし、たたかいの最中に全く予想だにしなかった事態が引き起こされたのです。問題は様々ありますが、特に下記の問題については大衆運動の場で引き起こされた問題であり黙過できません。党との正常な関係を望む立場から、また運動の正しい解決を望む立場からも最低限の事実経過を記すものです。

①日本共産党北東地区委員会の印刷機使用拒否問題
 この問題は01年3月19日、争議団員が日立男女差別争議の裁判所宛団体署名要請文の赤印の印刷の為北東地区委員会に印刷機を借りに行きましたが副委員長は、今回は「『この団体署名に神奈川労連はハンコを押せない』 と言っている以上、共産党が印刷機械を使わせることはできない」として印刷機の使用を拒否した問題です。
 日立神奈川争議団が北東地区委員会に印刷機を借りることにしたのは、以前に日立神奈川賃金差別事件の神奈川地労委宛団体署名要請文印刷の際に赤色の印刷可能な印刷機を有していたのは北東地区委員会であったので借用した経過があったからでした。その際には印刷機の使用料金も支払い、気持ち良く貸して頂きました。
 しかし、今回は神奈川労連と 「協力共同の立場から」として印刷機の使用を拒否したものです。

②3権分立の立場から裁判所への 要請文には署名できない
 01年5月、前記の男女差別事件の裁判所宛て団体署名の要請を西南地区委員会にしていましたが、西南地区委員会は「立法の立場にある政党が司法に対する団体署名に賛同を表する行為は今後しないとのこと。中央は昔からこの立場からしていない。地区レベルでは曖昧だった。また、企業に対する団体署名等も行わない。(この理由は分からないという)消費税などの個人署名は個人個人がやることは当然。として男女差別事件の団体署名は断られました。しかし、この件で納得のゆく説明はきかれませんでした。

③西南地区委員会の宣伝力ー貸し出し拒否
 日立神奈川争議の解決交渉も大詰めを迎えていた02年6月23日 (日)、戸塚地域で3万枚の地域ビラ宣伝行動を取り組みました。
「リストラ・分社化反対、日立争議の解決をめざす6・23宣伝行動」と銘打って行った行動でした。当日は宣伝カーによる区内宣伝も行いました。事前に西南地区委員会に対しても宣伝カーの借用を申し入れていましたが快く了解の返事を貰っていました。しかし、前日になって宣伝カーの使用を拒否してきました。

④日立神奈川争議解決報告集会への3加拒否及び「3加は適切ではない」と妨害したこと
 2002年11月30日、「日立神奈川争議全面解決報告集会」を横浜国際ホテルで400名を超える方々に参加いただき成功裏に開くことができました。この集会を準備する過程で参加者から共産党神奈川県委員会が「集会では日本共産党を誹藷・中傷する可能性があるので集会参加は適切でない」との見解を出し、集会に参加しないよう支部や党員に伝えていることが明らかになりました日本共産党神奈川県委員会通達文書。集会成功の為に必死になって奮闘している最中のことで、この情報を耳にしたとき直ちに団は地区委員会に抗議をしました。しかし、聞き入れる状況はありませんでした。団と支援共闘の奮闘で集会は予定規模を大きく上回って成功しましたが、政党が大衆組織の争議勝利報告集会に「参加するな」という指導をしたことは歴史に汚点を記すことで大変残念なことでした。

⑤宮崎集会での役割について
 日立神奈川争議の解決交渉の終盤で団から脱退し、個別解決をした宮崎氏の「日立・宮崎争議勝利報告集会」 (以下、「宮崎集会」)が03年2月1日に建設プラザで行われました。
この集会及び宮崎氏が発行した「真の団結を求めて日立争議の経験から」と題する文書については佐藤団長が反論しています{資料別添付}ので詳細は省きますが集会は以下のようなものでした。「宮崎集会」の実行委員会のメンバーは岡本一(神奈川労連副議長) 朝海吉一(日本共産党神奈川県央地区委員長)を含む8名でした。
 日本共産党の地区委員長が、争議の報告集会の実行委員に名を連ねることについては、かつて見たことも聞いたことも無かったことです。
 朝海地区委員長は、「宮崎集会」のプログラムに寄稿した文書のなかで「10年余にわたり『世界の日立』を相手に思想差別を背景にした賃金昇格差別争議をねばり強くたたかいぬき、見事に勝利し解決したことに心から連帯の挨拶を送ります。宮崎さんは、争議にかかわって前半の数年間は争議団長として奮闘されました。後半は全日立争議の1括解決をめぐって統一と団結を守る立場を一貫してつらぬき通しました。今、差別争議のあり方が問われているとき、何が階級的民主的道義にかなった方向なのかを示唆するものとして、彼の勇気あるたたかいに敬意を表するものです。」と述べて、争議団の分裂を画策し、自ら争議団から脱落した宮崎氏に対して最大級の賛辞を送りました。

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