日立の全争議はなぜ一括解決できなかったのか
日立の一都三県の争議で、神奈川が一緒に解決しなかった事をとらえて神奈川労連の一部幹部は、2003年3月1日の神奈川労連第8回幹事会文書で、「神奈川の反「合」権利闘争を過信し思い上がった個人指導の 『支援共闘』方式や争議運動を絶対化」だと攻撃しています。
「神奈川の反「合」権利闘争を過信し思い上がった個人指導の 『支援共闘』方式や争議運動を絶対化し、ナショナルセンターとしての全労連の役割を否定し、東京・愛知、茨城の労連や労働運動、民主勢力などとの連携を否定するという態度をとりました。全労連や東京労連などとの対立をあおり、労働運動に亀裂をもたらそうとしました。さらに、神奈川労連が日立神奈川支援共闘の意向に沿わないからと、神奈川労連批判を展開しました。労連内の単産・組合、地域組織に不団結を持ち込もうとしています。」
この文書は、何の内容も具体的事実もなく他を攻撃し、自らの誤りを正当化しようとしていますが、私達は、多くの成果を勝ち取ってきた神奈川の反合権利闘争を更に発展させるために、「なぜ一括解決できなかったか」解明をしたいと思います。
日立争議は1都3県の日立の社員が会社の解雇や差別攻撃に対して闘いを起した争議です。
日立は争議のデパートとも言われ、長い間、職場労働者への抑圧が続くなかで、様々な争議が闘われてきました。古くは日立武蔵の「ガラスの檻」事件や、日立茨城の活動家解雇事件などです。
個々の争議は解決したものもありましたが、その解決内容は様々でした。しかし、日立での解雇事件では、神奈川の佐藤解雇事件以外は金銭解決で、職場に復帰した事件はありませんでした。
一般に、全国各地に事業所があり、各地で労働者の闘いが展開されている場合、攻撃しているのは、形態はそれぞれ異なっていますが、本社の労務政策を基本に、全国各地の職場での労務管理が行なわれていることは周知のことです。従ってこれと全国各地の職場で闘う労働者が統一して闘うことが当然効果的で力になり、争議の解決内容も、闘う労働者が高い水準で団結していれば、「早く高い水準」での解決が出来ます。
日立争議のように、時代背景に複雑な状況があり、また一部の人の覇権主義、大国主義を振りかざし一方的な方針を押しつけてくる状況では、統一した闘いが困難になるのは当然です。しかもそれに追随していながら、「ナショナルセンターとしての全労連の役割を否定し、東京・愛知・茨城の労連や労働運動、民主勢力などとの連携を否定するという態度」、「全労連や東京労連などとの対立をあおり、労働運動に亀裂をもたらそうとした」とする一部の人の主張は、民主主義とは相容れない暴論であり、まともな労働組合運動では許されるものではありません。
しかし、後述するように、「統一して闘う」ことが最後まで貫けなかったのです。
(1)統一をめぐる経過
統一に関する問題の経過について日立神奈川支援共闘会議は、2000年7月21日の支援共闘会議幹事会に、「日立闘争の経過、全労連、一都二県との関係を中心に」と題した文書を、提案、採択し、2000年10月4日付けで日立神奈川争議団、日立神奈川支援共闘会議の連名による「『日立争議の経過と今後の対応について』 と題する神奈川労連文書等に対する見解」を発表し、次のように明らかにしています。
【2000年10月4日付け文書の部分写し】
(表題)「日立争議の経過と今後の対応について」と題する神奈川労連文書等に対する見解
2000年10月4日
日立闘争神奈川支援共闘会議
日立神奈川争議団
1. 支援組織をどう作るかの問題で、神奈川の団は「上から作るのでなく、各県に支援共闘を作り、その次に一都三県の支援組織が集まって中央支援組織を作る」と言う提案をし、日立争議団共闘会議全体の方針として確認されました。
2. また、日立争議団共闘会議として全面一括解決の方針を確認したにもかかわらず、あとになってから1都2県は、「個々に解決していき、最後に残ったものが解決するまで一緒に取り組めば、それも一括解決である」と解釈のすり替えを行いました。
3. 神奈川は、事業所要請・駅頭宣伝・ちょーちんデモ・大集会・佐藤事件命令日行動・団結キャンプなど大衆行動を反復する中で、上記1の方針により、いち早く支援共闘準備会を結成しました。
4. 他の都県でも支援組織(支援共闘ではなく連絡会議のところもあったが) が結成 されたことにより、神奈川も準備会を支援共闘会議に再組織(97・2・25)しました。
5. 中労委より和解の打診があったとして東京の団は、「和解の受け皿づくりを早急に 行う必要があり、それは全労連を中心にすべき」「全労連を中心として中央組織を作るべきだ」との主張をしてきました。神奈川の団は「上記1の方針で対応し、一都三県の支援組織が対等平等な形で中央組織を作るべき」と主張しました。
6. 98年7月の団結キャンプで東京は「今が解決の絶好のチャンスであり、全労連中心に和解の受け皿づくり」の世論を作るための構えを持って参加してきましたが、神奈川の道理ある説明により、上記1の方針で話し合いを始める方向がほぼ確認されました。
7. 一都三県の支援組織から代表が2名ずつ出席しての話し合いが始まりました
①話し合いの中では、中研と東京提訴団の中労委和解の中で、東京が、神奈川を含めた一都三県の解決要求を出すことを中労委に約束したことが発覚し紛糾しました。
②会社とのチャンネル問題や、未解決のままであった神奈川の支援者への中傷問題なども出されました。
③それぞれの地域により、争議の歴史も闘い方も違っていることもあり話し合いは難航しました。神奈川は、「リストラなど一致する問題で統一行動を積み重ねる中で、違いを乗り越えていこう」と主張しましたが、「ここは、リストラ問題など議論する場でない」と一蹴されました。
④神奈川は、「原告同士で意見が一致してないもとで進めても、支援者の代理戦争になってしまい、今後団結したときにしこりを残すので次回会議(1都3県)は延期してもらい、原告内で話しあってほしい」と主張しましたが、99年1月16日、神奈川を除いて会議を強行し、一都二県だけで組織を作ることを確認してしまいました。
⑤日立争議を担当していた全労連副議長との話し合い(9人年5月20日)で副議長は、「当該全員から頼まれない限り、全労連は引き受けない」と回答し、同年8月5日には別の全労連副議長が神奈川を訪れ「形だけの交渉団を作ってもバラバラではしようがない、全労連は当該がまとまって要請されれば(支援共闘の代表を)引き受けるという立場だ」と表明していました。
⑥日立争議団共闘会議は総会 (99・1・30)を開き、神奈川を切り捨てて進めていく方針を多数決で決定。総会議案は、役員会での討議がないままに直前まで訂正が繰り返され、和解にのるかどうかは各争議団とそれに準じるグループの判断に委ねるとの議案が提案されました。そして、準ずるグループとは男女差別争議のことだと総会席上で始めて明らかにされました。
8. このような経過を無視した上で、一都二県は「総会では考え方の違いを乗り越え団結し、闘う方針を確認した」として、2月1日付で関係者に案内文を送付し、2月11日に日立争議支援中央連絡会結成準備会を開催しました。そして、3月16日には全労連の副議長を代表とする日立争議支援中央連絡会(準備会)を結成しました。
9. 提訴外者も含む81名で共同要求提出争議団を作り、3月16日に中労委に要求書を提出し、一都二県は和解に入りました。その中に男女差別事件の東京原告5名も加わりましたが、彼女たちは直前の団会議で和解にのる態度を明らかにし、「9名が一緒に解決するためにもっと議論しよう」と言う神奈川原告の意見を振り切り(「団が分断になっても和解にのる」と主張する東京原告もいました)和解に加わりました。要求書には男女差別弁護団7名の名前も連ねられていました。
10. 神奈川支援共闘として日立担当の全労連副議長に面会を申し込みましたが「今は会う時期でないので担当幹事と話して欲しい」との回答を受け、99年3月29日、担当幹事に対して要請。「全労連は今までの考え方を変えたのか。全体が一致していない状況で、全労連が一方に加われば、亀裂がますます拡大される」との要請に対し、「会社が全面解決を言い出してくる中で全労連として決断した」と回答。あわせて「団結回復に向けて神奈川としての案を出して欲しい」との意向が示されました。
11. 全労連が中心に座ったことにより、一都二県は神奈川の訴外の人たちへ直接分断工作を始め、神奈川労連も「日立神奈川の闘いを支援しないこともあり得る」と言い出すなど団結を困難にする状況がますます強まりだしました。それまでは一都三県の原告内(あるいは共闘間の)不団結だったものが、全労連労働組合レベルの不団結となってきました。
①神奈川支援共闘としては、全労連・神奈川労連に関わるデリケートな問題であることから、これまでは共闘内部での報告にとどめ外部には発表を行わず対処してきました。
②しかし、「全労連が支援しているのになぜ一緒にならないのか」と言う一方的な批判の声が強まる中で、日立神奈川争議団は「日立争議の現状と課題について」と言う見解を発表しオルグを開始しました。(4月28日)
③神奈川労連からの「文書配布はやめて欲しい。今後は事前に文書を見せて欲しい」と言う要請を受け、団は「文書配布は固有の権利であるとしつつも配布を差し控える」ことにしました。
④その後現在に至るまで文書配布はしていませんが、「統一と団結」を主張した神奈川支援共闘の指摘したとおり、事態はますます混迷と分断を深めています。
12. 神奈川労連より「日立問題で全労連と協議をした(1999/4/20)ので結果を伝え話し合いたい」との申し入れを受け、支援共闘と原告は、5月7日に神奈川労連と話し合いを行いました。その席上で神奈川労連は次のように述べました。
神奈川労連‥
全労連が関わったことを問題にせず、今後は全労連が関わっていることを前提に考えて行かざるを得ない。「どのような条件なら他の都県と一緒に出来るのか神奈川の意見を知りたい」と全労連から言われているので共闘で議論して欲しい。
13. 上記の討議について、原告内には「一方的に土俵が作られたにもかかわらず、そのことを前提に討議をさせるのは問題だ」「なぜ全労連は、団結回復の討議を神奈川だけにさせて、一都二県には討議させないのか」と言う意見が強く出されたものの、共闘としては団の議論もふまえて「全面一括解決に向けた団結を回復するための提案(団結案)」を7月26日の幹事会で確認しました。そして、「今回の不団結は、全労連対神奈川支援共闘の問題に歪曲するのでなく、争議情勢の見方、中央支援共闘のあり方、会社との複数のチャンネル問題、神奈川共闘役員への誹藩中傷問題、訴外者の問題など多岐にわたっての意見の不一致が争議団・原告の中にあり、それを解決すべく話し合いが進められていたにもかかわらず、1月30日の総会で神奈川を除いて、中労委和解に入ることを一方的に決めたことにある」 として、先ず日立争議団共闘会議の団結回復のための会議開催を提案しました。
さらに、この間の総括を行い、要求における一致点を確認することが重要であるとして、バックペイや訴外者・関係会社の扱いについても具体的な提案をしました。
14. この団結案の考え方につき、神奈川労連には8月10日に説明。全労連には8月11日に連絡しましたが、担当副議長は20日まで不在で連絡が取れないとのことでした。20日以降、連日五回電話しましたが「不在」「接客中」「会議中」であり、電話で話が出来たのは26日になりました。
その内容は次の通りです。
担当副議長‥
今、神奈川共闘の方と会っても仕方ないので、しばらく原告同士の話し合いの様子を見たい。(団結案の考え方を説明したいとの申し入れを固く拒否)
15. 団結案は、日立争議団共闘会議幹事会で議論されたものの一都二県は次のように述べて、全労連や私たち神奈川の意に反し何ら具体的な前進は見られませんでした。
一都二県‥
神奈川の団結案は受け入れられない。一緒に団結するというなら無条件で日立争議支援中央連絡会準備会に人ってくるしかない。
幹事会の討議に参加した神奈川の佐藤団長は「このままでは、また分裂してしまう」と言う危惧から「会社が解決金について、神奈川への別回答に応じ ることを前提にして、同じ要求で、一緒の交渉テーブルについてもいい。あ くまでも私案ではあるが、団結のために譲歩する。もちろん共闘会議の了承が必要だが。」と発言(1999・12・11)。
16. 上記佐藤私案は、1月15日の日立神奈川争議団の団会議で団事務局に一任されました。共闘会議(2000・1・28)は「基本は従前の団結案であるが、原告の意思を尊重して討議状況を見守る」ことを確認。その後、神奈川の原告団案として確認(1月30日団会議)されました。
17. 神奈川の譲歩で要求が一致し、1都2県の団もおおむね合意されたことから、日立争議の統一が前進されたかに見えたのですが、2月20日の日立争議団共闘会議幹事会で1都2県は「中央連絡会準備会を基本に訴外を含めた統一司令部を作ろう」と言いだし紛糾しました。
神奈川‥統一司令部の言葉は突然に出てきた。交渉を進めるための調整機関は必要だが、統一司令部となるには過去の経過について総括することが必要だ
1都2県‥会社も3月中に解決したいと言っており、そんな時間はない。
18. 翌21日、全労連副議長より電話があったとして神奈川労連は「昨日の争議団の会議では、神奈川の佐藤氏が神奈川共闘の方針だとして、独白要求・独自交渉を言い出して決裂したと聞いている。どうなっているか。」 (神奈川は上記の主張をしたのであってこのような発言の事実はない)
19. 全労連副議長が伸介に乗りだし、3月7日、全労連・一都二県の原告団・神奈川原告団との話し合いが行われました。その結果、前記16の神奈川原告案が合意確認され、あわせて統一要求・統一交渉を確認、交渉を統一的に進める組織をつくるための協議を始め、統一交渉団の構成や人選はこの組織が決定することの確認がなされました。日立争議担当の全労連副議長は「両者が合意に達し、今日は歴史的な日だ」と評価。
この合意内容は、翌8日には 「確認事項」として全労連から神奈川労連にFAXで送られ、当日の神奈川労連幹事会でも読み上げられました。
20. この確認事項は、3月21日の神奈川団会議でも全員が了承をし、14日の支援共闘事務局でも「統一に向けて前進であり評価する。団がこの方向で進むことを共闘として確認する」としました。
21. 男女差別の原告団長からは、神奈川原告4人に対して要旨次のようなFAXも送られてきました。「20日の共同要求提出争議団全体会議では、3月7日の話し合いの精神を生かして神奈川と一緒にやっていくことになり、とても嬉しい」
22. ところが東京の支援組織から「新しい組織を作ることまで全労連副議長に権限を委譲してない」 と反対されると、副議長は3月28日の会議で「3月7日の文書は討議の経過を書いたもので、確認文書ではない。」と言いだし、さらには 「神奈川は中央連絡会準備会に入り、現在の交渉団に加わって欲しい」と、自らが仲介した確認事項を反故にする発言を行いました。「全体が一致しない限り、中央支援共闘の代表を引き受けない」との言明を反故にしたことに続き、自らが仲介した確認事項を反故にした全労連副議長の対応に私たちは驚きました。これは、神奈川の共闘は原告の意思を尊重してない、などと批判してきた東京の支援組織こそが原告間の確認を踏みにじったものともいえます。またこの日の会議で、中央連絡会準備会の事務局長は「5月は昇給月であることから4月中をメドに解決することを会社とも合意している」と報告しました。
23. この後、神奈川労連も、全労連の追随をして「要求が一致したのになぜ組織間題にこだわっているのか、組織問題は棚上げして一緒に出来ないのか。組織問題を理由として統一に加わらないなら、神奈川労連として支援共闘の参加は困難になる」と迫ってきました。
24. こうした状況を受け、話し合いを求めてきた神奈川労連議長に対して、佐藤原告団長は「資本に対して統一して闘うために、組織間題は棚上げして、交渉に神奈川の代表を送り同時決着としてもいい」と回答しました。
25.神奈川労連議長からは5月3日、「神奈川を入れて統一交渉につくのは無理だ。パラレルに交渉を進めて一定のゾーンの中で解決するしか方法がないだろうと言ってる」と全労連副議長の意向が示されました。
26. 4月23~24日にかけて、一都二県の団より、神奈川の原告各人に対し個別に連絡があり「近い内に中労委の裁定が出される、要求名簿に名前を載せるかどうか今日中に返事が欲しい」との分断攻撃が掛けられました。
27. 中労委は5月2日に総合職7万円、技能職3.5万円の裁定を提示。1都2県の共同要求提出争議団(訴外、関連会社含む)は、5月7日に全体会議を開催し裁定案の受け入れを決定。一都二県は、会社と双方が裁定を受け入れたことにより、格付けの個別是正の交渉に入り、各人には是正水準を公開しないまま、合意することを会社に伝えました。
28. 神奈川では、5月16日に地労委での全面勝利命令を勝ち取りました。一方では横浜工場の原告全員に対し出向攻撃が掛けられました。こうした情勢をふまえて、今まで主張してきた統一と団結を重視しながらも、全労連副議長から統一交渉への受け入れが拒否された以上、パラレル交渉をめざすかの討議が開始されました。
29. 5月30日のオール日立弁護団会議の中で、全労連副議長は「統一交渉は受け入れずにパラレル交渉を始めろなどとは言ってない」と、またしても前言を翻しました。(パラレル交渉発言は、神奈川労連議長だけでなく共同要求提出争議団の議長も「聞いている」と認めているにもかかわらず)
30. 会社は、解決したいという一方で、神奈川原告団の中心である横浜工場でリストラ攻撃を仕掛けていることから、原告の意思を尊重し、リストラ問題と正面から闘うことを神奈川の支援共闘会議は6月22日の幹事会で確認しました。
以上
日立争議の統一をめぐる諸問題について
① 日立争議の時代背景
(イ)戦後資本は総評時代を含め、共産党員がイニシアティブをもつ労働組合への攻撃、職場の共産党員や支持者に対する徹底的な排除、差別攻撃を行い労働組合の右傾化、御用化を進めてきました。
組合活動家や共産党員に対する攻撃は、会社によるインフォーマル組織の育成とそれを使った組合役員選挙への介入、組合活動家などへの配転、解雇攻撃からやがて、賃金・昇格差別、職場八分など攻撃へと移っていきました。そうした資本の攻撃に対し、共産党員や同調者は、裁判所、労働委員会、各種公共機関を活用して闘いに立ち上がり、労働組合としてあるいは争議団や争議団共闘を結成して闘い、資本の攻撃を跳ね返し始めました。
独占大企業の生産現場が集中する神奈川では、
NKK京浜製鉄(1988年3月)、
NKK鶴見造船(1988年5月)、
日産厚木(1988年5月)、
池月鉄工(1988年12月)、
山武ハネウエル(1993年11月)、
小田急(1993年12月)、
東京電力(1995年12月)、
千代田化工(1998年12月)
等の大企業差別争議がつぎつぎと勝利解決していきました。
他都県でも
中部電力(1997年11月)、
関西電力(1999年12月)
が勝利解決しました。
とりわけ、東京電力の思想差別争議は、全労連の一都六県のローヵルセンターから役員を派遣した従来にない規模と内容の中央支援組織が作られ、運動もかつてない規模と質で取り組まれ、しかも、これまでにない資本と支援共闘との直接交渉により、原告全員の個別賃金・資格について本人の意向を入れて、高い水準で是正をさせ、また提訴外者についても是正させる等高い水準で解決しました。
資本がこうした闘いから大企業職場での支配維持に強い危機感を抱き、巻き返しを画策しはじめたことは間違いありません。
(ロ)全労連が結成10年目を迎え、全労連を争議の中心にするという動きが出て、中部電力争議、関西電力争議にはナショナルセンター全労連が支援部隊の中心に加わりました。
(ハ)先に述べた大企業争議が相次いで成果をあげて解決しましたが、その中心が神奈川であったことに東京争議団の一部の人や東京の労働組合の一部幹部に、これに反発する動きが顕著になってきたのもこの頃でした。とりわけ東電東京原告団の一部にそうした動きが顕著でした。
東電争議等で自主交渉が争議解決是正交渉で成果をあげましたが、これには弁護士が交渉に参加できなかった事もあり、支援共闘主導の解決に弁護士から不満が出されていました。
②なぜ日立は争議の全面解決を決断したのか
会社が日立争議の全面解決を決断したのは以下のような日立争議をめぐる情勢を判断したからと思われます。
1992年10月、1都3県の日立賃金差別争議が一斉に都県の労働委員会に提訴し、日立8争議が揃った翌月の92年11月15日に日立争議団共闘会議が再建されました。各争議団は個別のたたかいをしながらも日立争議団共闘会議に結集して情報交換や協力共同のたたかいをしていました。しかし、この当時は争議の解決の有り方までは念頭に無く、個別争議の勝利をめざして運動をしている状況でした。しかし、1995年6月27日、サービス残業事件が神奈川地労委で全面的勝利をしたことで日立争議の解決のあり方が議論される状況になりました。同年9月23日、日立争議支援連絡会議が結成されました。
この組織は争議で先行していた中研支援共闘が中心になって結成された神奈川を含む一都三県の争議団と支援組織・個人で構成された組織です。しかし、この組織も情報交換、協力・共同の組織の域を出ないものでした。
日立争議の情勢はサービス残業事件に続いて中研事件や東京事件の命令が何時出されるかという状況でした。96年4月26日、オール日立争議団はサンライフ横浜で泊り込み会議を行って、争議の解決をどうするか議論しました。それまでにも全体の統一のための努力はされていましたが、全体は統一されていませんでした。例えば、東京は、日立武蔵の田中解雇争議、日立中研の賃金差別争議、日立賃金差別争議があり、統一の話し合いが行なわれましたが実際は統一していませんでした。
神奈川は争議の「全的」解決を主張しましたが、中研は「個別」解決を主張し対立しました。しかし、最終的には「全面一括解決」をめざすことで決まりました。同年5月17日、中研事件に「5人救済、7人棄却」の命令が出されました。翌、97年東京事件に対し、全面救済の勝利命令が出されました。このことで3争議が中労委に係争する状況になりました。
97年神奈川の仙石原での団結キャンプでは中研事件、東京事件に中労委より和解の打診が出ていることで議論しました。その後、両事件とも和解に入りました。日立争議団、支援連絡会議で今後の全的解決をめぐって激しい議論が行われましたが、神奈川が主張した各都県に都県を纏める支援共闘会議を結成すること、そして、その後中央支援共闘を早急に結成することが決められました。そして、愛知支援共闘(97年2月28日) 東京連絡会(97年10月27日) 神奈川支援共闘(97年11月25日) 茨城支援連絡会(97年12月15日)が結成され、翌98年2月11日に日立争議の4都県支援組織による会議が持たれ、中央支援共闘組織結成をめざす討議が始まりました。
同時に、4都県支援共闘と争議団は、一致できる点で共同の行動を展開し、日立に争議解決を迫っていきました。こうした日立各争議の全国的な結集の流れを見て会社は日立争議の全面解決を決断し、後に大木一訓氏が「労働運動」誌(03年7月号)で公表した会社の全労連への争議解決の伸介依頼はそうした中で行われたと考えられます。
③ 神奈川労連の一部幹部の誹誇・中傷について
神奈川労連の一部幹部は、日立争議が一括解決しなかった事に対し次のような文書を幹事会に提案して、神奈川支援共闘会議批判を行ない、神奈川支援共闘会議から脱退していきました。
「(3)「神奈川支援共闘の主張」の絶対化が統一を困難にしたのではないか「一都二県の争議団と共闘会議が中労委での「和解交渉の場を争議解決のチャンス」とした判断のもとに、全労連と全回単産も含め、今日の日本の闘う労働運動の総力を結集しょうとしたことは当然のことです。」中略
「神奈川支援共闘会議」は全労連のイニシアチブ発揮と地方組織の対等平等扱いを否定し、「全労連を排除しての地方共闘組織横並び方式」や「全労連を中軸とする中央支援連と神奈川共闘会議のブリッチ方式」に固執して、全労連を中軸とする中央支援結成に背を向け結局独自交渉路線を選択したのです。」(「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』 の問題」2001年5月9日神奈川労連第15回幹事会提案文書)
私達は、日立争議をめぐる当時の情勢を、「(中労委の) 和解交渉の場を争議解決のチャンス」とはとらえていませんでした。その他にも会社と1都2県のチャンネル問題、解決要求内容、争議団内部の団結の問題など様々な問題がありました。
そうした問題点の克服、解決のために、討議をはじめたところ、中労委で和解交渉を行なっていた東京の団や支援共闘から、突如、「中労委交渉で神奈川も含めて1都3県の解決要求を提出することを中労委に回答した」という事が伝わりました。これは神奈川になんの相談もないもので、大問題になりました。また、会社と労働者側の接触内容も詳しく報告されず、疑問は解けませんでした。
私達は、こうした様々な問題があっても、行動を重ねる中で統一と団結を強化して行こうと努力していましたが、一都二県は、1998年12月の「4都県相談会」で、「もう猶予は出来ない、来年早々には、中央支援連絡会を立ち上げる」と言い出し、強引に事を進めようとしました。私達は、そうした中で、1999年1月に開催を予定されている 「4都県の相談会」を「開催を延期すべきである」と申し入れました。しかし、東京を中心に「開催延期は認めない」として神奈川を除いて3都県による中央支援連を結成してしまったのです。
その後、一都二県側は日立争議団共闘会議での組織運営も更に強引に進め、「中央支援連絡会での一括解決」を神奈川の原告団の反対を押し切り、多数決で「決定」し、同時に神奈川の原告団への分裂行動を行いはじめました。
そこには、もはや「和解交渉の場を争議解決のチャンス」という情勢認識の相違ではなく、「問答無用」、神奈川の主張は一切聞き入れない排除の姿勢、覇権主義、大国主義と思われる非民主的な運営となり、なにか別の理由からの対応としか取れないほどの異常な対応でした。
一般的に争議解決をそれぞれの地方争議団や個々の争議団が自主的に決定する権利を有することから考えれば、全労連が参加を決定したのだから、その支援共闘組織に参加しないのは誤りとする神奈川労連等の主張が元々無理な主張であることは明らかです。
つまり、労働運動、民主的運動では、当然のことですが、歴史的に経過や性格の異なる争議団が一緒に運動し、一緒に闘う中で一緒に解決する上では、当然のことながら、それぞれの自主性を尊重し、それぞれの争議団の合意形成が必要であるし、それぞれの争議解決はそれぞれの自主的判断で、決定する権利を持っています。
他方神奈川労連の一部幹部は、神奈川労連から派遣した役員が、「神奈川労連の方針を日立神奈川支援共闘会議に反映しなかった」とこの役員を口を極めて誹誘・中傷しています。しかし、神奈川労連から派遣された役員は、神奈川労連の方針をその都度、支援共闘会議事務局会議や幹事会で述べていました。しかし、派遣役員の意見(神奈川労連の方針) が日立神奈川支援共闘会議や日立神奈川争議団で常に支持されるとはかぎりません。そのため派遣役員の立場を考慮して、神奈川労連幹部には支援共闘会議から何回も伝えていました。こうした事実経過を無視して、派遣役員の個人責任であるかのように攻撃し、誹謗・中傷を加えていることは卑劣な人権侵害行為であり、断じて容認できません。
日立神奈川争議団は、運動、方針、解決などについて、支援共闘会議や団会議の討議をふまえ、最終的には日立神奈川争議団で自主的に決定します。つまり争議解決の自決権が個々の争議団にはあるのです。それが、自由と民主主義の前進にとって不可欠のものと私達は考えるからです。だからと言って、支援して頂いてきた皆さんに「支援するのは当たり前」などとは決して思っていません。
そうしたことに対し、神奈川労連の一部幹部は、
「争議支援について」は「争議団が絶対」で他の支援者は「自分の意見や判断が必要でない」とするなら私達は争議団の手足でしかないことになります。」(「神奈川労連の争議に対する基本的態度と 『日立支援共闘』の問題」 2001年5月9日神奈川労連第15回幹事会提案文書)
と述べて、争議団を攻撃しています。しかし、私たち争議団と支援共闘会議は、何より
もその闘いが職場の自由と民主主義を前進させたことを当事者も支援者も喜び、成果として確認しあうことではないでしょうか。従って、争議団が支援者に対し、「手足でしかない」などと考える余地はありません。
こうした関係であるからこそ、争議団は争議中も、争議解決後も、支援してくれた人々や組織に心からの感謝の気持ちで接しているのです。
また、先の文書は私達が
「『全労連を排除しての地方共闘組織横並び方式』や『全労連を中軸とする中央支援連と神奈川共闘会議のブリッチ方式』に固執」(「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』の問題」2001年5月9日神奈川労連第15回幹事会提案文書)
と書いていますが、会議の途中で全労連を支援共闘の中心にするかどうかの話はありましたが、それに固執したことはありませんでした。
中央組織結成(一都二県との統一について)については、神奈川から様々な努力を行いましたが一都二県側は、分裂が決定的になる直前の2000年3月7日、全労連副議長と1都2県の争議団代表及び神奈川の争議団の代表との間で成立した合意すら、踏みにじってまで、神奈川を排除したのです。
その経過が事実である事は、神奈川労連の2000年9月15日に幹事会に提案された文書でも明らかです。
この神奈川労連文書は2000年3月7日に行われた全労連副議長の仲介で行われた話し合いについて
「原告団同士の話し合いで要求では全体として一致できるということになった。」(3月7日「1都2県と日立神奈川争議団の代表懇談」確認事項一別記参照)・(以下略)」 (2000年9月15日神奈川労連幹事会提案文書)
と原告団同士の話し合いで要求では一致した事を認めています。これは私たちが、この時の一致点、3月7日に確認された確認事項(別添資料)について神奈川労連文書は要求で一致と書いていますが、実際は次のように要求だけでなく、交渉や組織についても重要な合意を確認したものです。
「3.組織
交渉を統一的に推進する組織をつくる。その組織の構成、名称は別途協議し、決定する。統一交渉団の構成、人選はこの組織で決定する。」 (3月7日「一都二県と日立神奈川争議団の代表懇談」確認事項。別添資料参照)
この確認事項をもとに1都2県の原告団は2000年3月20日に行われた「共同要求団全体会議」で一日かけて討議し、
「3月7日の話し合いの精神を生かして、一都三県で統一して交渉にあたり全面解決していこう。神奈川と一緒に、日立全争議の早期解決をめざそう、和解で出されている回答水準を上げるたたかいを組もうということでまとまりました。有意義な一日の討議となりました。本日の結論は、東京の五人の男女差別原告にとって、とてもうれしいものでした。(2000年3月20日付け、男女差別原告団団長から神奈川の男女差別原告4名に宛てたファックス。別添資料参照)」
と1都2県の当該原告らは、神奈川も含め全体で統一して闘うことを喜んだのです。神奈川の原告は、それ以前に3月7日の確認事項を了解していましたから、これで全体が統一できることになったのです。
ところが、その後、一都二県の支援組織がこの確認事項を反故にしてしまったのです。日立争議団共闘幹事会での報告によれば、全労連副議長は1都2県内のある代表から「そこまで貴方に権限を委譲した覚えはない」と言われ、確認事項を否定されてしまったとの事です。そして全労連副議長は、その結果になんら自分の責任を認めず、2000年3月28日の全労連、神奈川労連の代表、1都2県、神奈川の原告団、支援共闘代表の会議で、は「経過としてそうした内容があったが確認事項などない」と開き直ったのです。
その後一都二県側は「今ある、支援共闘中央連絡会の組織に加わり、その代表委員に入るかどうかだ」と、自分たちの意向のみで「統一」させようと強引に押し付けてきたのです。これは
「(5) これまでの争議支援の教訓から、主体はあくまで閲っている争議団(組合)です。単産所属の争議の場合は単産が担い、単産がない争議の場合は支援組織を結成して指導援助することになります。しかしその場合でも要求、運動、支援組織のつくりかたはあくまで原告とその職場の意思を尊重することが重要です。」 (「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』の問題」2001年5月9日神奈川労連第15回幹事会提案文書)
と強調している神奈川労連の考えにも反し、当該争議団の意向を踏みにじるものです。2000年3月7日には、1都2県の争議団の代表と神奈川の争議団の代表、これに全労連の代表も加わって日立争議の統一回復のため協議し、条件の確認を行い、それを確認事項として手書きで文書にして当日確認し、全労連代表が翌日この手書き文書をワープロで打ち直し、神奈川労連の幹事会に間に合うようファックスで送ってきたものです。
そうした重要でしかも原告争議団が一致したものを、一都二県の支援組織が、それを認めず反故にし、
「①要求については統一要求に神奈川を追加して提出する。共同要求提出団の名称は使わない②交渉団、小委メンバーについては交渉団現11名に神奈川からの2名を加える。小委メンバー現5人に神奈川の1名を加える。⑨組織体制については新たに神奈川が横並びに入り新体制とする。(「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』の問題」 2001年5月9日神奈川労連第15回幹事会提案文書)
等と3月7日の確認事項を踏みにじり一方的な提案を行なってきたのです。これを神奈川労連の一部幹部は
「4.今後の対応について全労連も加わり、全国的な闘いがすすめられ、4月未を重要な山場として交渉が行われている。要求では、一致しているのに組織体制を最大の理由として神奈川が全国的な統一に加わらないことになれば神奈川労連として、争議解決に責任をもつ支援共闘の参加は困難となる。支援についてはその都度協議して対応することとする。」(「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』 の問題」 2001年5月9日神奈川労連第15回幹事会提案文書)
などと言い出し、全労連副議長の無責任で大国主義的なやり方に迎合したのです。
私たちはこうした、1都2県の一部代表や全労連副議長の大国主義的やり方を認める事は出来ませんでした。
神奈川労連の一部幹部はこうした上意下達、事大主義的な対応を正当化するために、神奈川の原告団や神奈川の支援共闘が誤りであると言い始め、神奈川の支援共闘会議から脱退したのです。そこには、職場を基礎にした闘いをつくりあげていく事も、自らの自主性も無く、あるのは、ただ中央に従うことだけでした。
当時神奈川の支援共闘代表は一都二県だけの中央組織結成とそれへの全労連の参加という日立争議の統一と団結が破壊されようとしている危機に面して、これを回避するために、全労連本部を訪問し、日立争議の統一と団結、全面一括解決のための申し入れを行うとともに、全労連がとっている対応の危険性を指摘しました。当時の担当幹事等が対応しましたが、神奈川支援共闘や日立神奈川争議団の申し入れは聞き入れられませんでした。
神奈川はその後も一都二県の争議解決交渉に合流すべく何回か譲歩し、要求についても譲歩して一致させ、交渉でも最後まで「同時解決」や「同時期解決」などの提案も行い努力しましたが、一切聞き入れられず別解決となってしまったのです。
(3)一括解決ができなかった原因はなにか
① 争議解決とその内容
以上日立争議の全面一括解決をめぐって、事実経過に基づいて検討してきましたが、1999年3月、日立神奈川を除く東京、茨城、愛知の一都二県争議は、全労連を中心に据えた日立争議支援中央連絡会(準備会)を結成、2000年9月に会社との和解が成立して解決しました。この間日立資本が以下に述べるように全労連に仲介を依頼したのです。その内容をひた隠しにして、全労連を中心に争議解決させるということで神奈川を排除して解決交渉を強引に進め、その結果、この日立一都二県の争議解決水準は是正金額が同年同期の平均と比べ低く抑えられ、関電争議にも見られましたが、会社の差別額是正回答を交渉中本人に報告することなく、一定の是正枠の中で個別是正内容は会社の裁量で決める事などを労側が認めることが行なわれました。
② 日立資本が全労連に和解交渉の仲介を依頼
日立神奈川争議が全面解決してから、一年余が経過しようとしています。最近の月刊「労働運動」誌2003年7月号の座談会(出席者「立命館大戸木田氏、日本福祉大大木氏、全労連熊谷議長、共産党青池労働局次長) では、日本福祉大の大木氏が次のように述べていることが明らかにされました。
大木「そうした大企業職場のたたかいと全労連のリストラ反対のたたかいとを合流させ、もっと統一的に発展させていくことはできないのでしょうか。日立争議の勝利和解をかちとるうえで全労連は決定的な役割をはたしましたが、その経過をみると、日立という日本の代表的な企業が連合組合を飛び越えて、全労連に和解交渉の仲介を依頼し、全労連および 「争議団」との間で長期にわたる事実上の団体交渉を行い、裁判所や労働委員会の認知のもとに公式に協定を結んだのです。これは画期的な出来事で、全労連は大企業との間でも団体交渉や協約締結をするようなたたかいを組織しうるところまできていることを示しています。こうしたたたかいの成果や経験をもっと広め発展させていくことができれば、大企業職場でのリストラ反対の運動もこれまでにない社会的広がりと力強さをもつようになるのではないでしょうか」
日立争議に関する極めて重大な内容が、日立の一都二県の争議解決から約三年後に明らかにされたのです。大木一訓氏が発言した内容は、当時全面一括解決をはかるための一都三県代表による相談会の場では一切明らかにされなかった内容です。
会社との関係について、一都二県の日立争議総括集(82頁)では次のように書かれています。
『中研先行解決を主張していた会社が、99年1月、突然、嶋田一夫中労委労働者委員を通じて、「争議の全面解決をはかりたい」との意思を伝えてきた。この背景については、全労連に一括解決の窓口を期待したのではないか、相次ぐ不祥事と業績の急激な悪化があるのではないか、争議支援活動の広がりと国内外の世論の高まりを恐れたのではないか、新たな合理化の前ぶれではないかなど、さまざまな見方があったが、日立争議団にとってはまさに早期全面一括解決の絶好のチャンス到来であった。』
この文書がすべて正確であるかどうかは別にして、日立争議総括集 84頁では
99年1月、中央支援組織づくりの話し合いの場に、神奈川の争議団も支援組織の代表も出てこなくなったなかで、茨城、東京、愛知の三都県の代表で話し合いが続行された。全労連とも相談し、春闘などの多忙のなかであったが、中労委に共同要求を提出した99年3月16日夜、全労連を中心に「日立争議支援中央連絡会準備会」(以下、中央支援連)を一都二県で結成した。
と1999年1月に「突然、嶋田一夫中労委労働者委員を通じて、『「争議の全面解決をはかりたい』」との話があると直ちに、面倒な神奈川を排除して解決交渉の受け皿である「日立争議支援中央連絡会準備会」を結成したというのです。
東京の支援組織や原告は「今が争議解決の絶好のチャンス」とこの話よりだいぶ前から言い出しその根拠について神奈川原告団や支援共闘が聞くと「労働法制の改悪で会社分割法が作られこれが実施されると揃う相手との関係が複雑になるので早く解決しなければ」と言い、全面一括解決をめざす一都三県の相談会 (この相談会はメンバーは争議の中心メンバー) で神奈川から「会社とのチャンネルは?、会社との関係をすべて4都県の相談会では明らかにすべき」と言われても、日立争議総括集に書かれている内容や大木発言などは一切明らかにしませんでした。
こうした中で、1999年1月には、神奈川がどうあろうと1都2県が全労連を中心にした支援組織をつくり、会社と解決交渉に入っていったのです。
そこには、話し合いによる一致点を見出し、統一と団結のもとに闘う方向は見られなかったのです。それは、会社からの情報にもとづく「争議解決の絶好のチャンス」 の思惑と覇権主義からのものでしょう。
(4)全労連組織と争議支援組織について
①全労連組織と各単産・地方組織について
全労連本部と各都県地方組織は上部下部の関係でしょうか
全労連規約では
第六条 権利
1.加盟組合の地位と権利はすべてこの規約のもとに平等である。
2.加盟組合は規約を守ることのほか全労連によって組織の自主権を侵されない。
となっているだけで、それぞれの加盟組合(単産、地方組織)が、自主的に決定した内容に全労連本部が介入することは出来ません。
上記の例は全労連組織内での権利関係ですが、日立争議の場合は連合所属の組合員の争議という条件がありますから、組織的には複雑な関係にあります。連合所属の組合員の闘いを全労連が支援することは組織介入と取られる恐れもありますから、その点で組織的対応は慎重に行なわなければなりません
②全労連組織と争議支援共闘組織との関係について
各地方組織と各都県の日立争議支援共闘組織とは、別組織であり、神奈川労連の決定を日立神奈川支援共闘会議が従わなければならないものではありません。
それは、支援共闘組織は、独白の規約を持ち、役員を選出し、定期的に会議を開催し、総会も開き、行動する争議勝利のための専門組織だからです。
こうした支援共闘組織だからこそ、連合との組織問題もクリアしてきている面もあるのです。
これまで、日立神奈川の争議団や支援共闘や支援共闘関係者には一切明らかにされなかった日立資本と全労連の関係が公に発表され、日立資本が「全労連に和解交渉の仲介を依頼」した事が明らかになり話題になっています。
グローバリゼーションの言葉がはやり、すたれようとし、二大政党制、憲法「改正」を堂々と選挙中に議論させるマスコミ、そうした中で資本の職場支配の維持・強化をはかる資本の巻き返しが行なわれています。私達は労働組合運動の前進、強化を願ってやみません。日立争議をめぐる様々な問題はやがて歴史が明らかにしていくでしょう。
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