支援援共闘について
(1)はじめに

 いま、日立神奈川争議の勝利解決のなかで、あらためて「争議支援共闘」とは何か、が問われています。
 1977年の神奈川争議団共闘会議結成以後、2003年現在150を超える多くの争議団が自らの奮闘と、これを支援した「支援共闘」の奮闘により、勝利解決を勝ちとってきました。それぞれの争議のなかで、「支援共闘」についてさまざまな論議をし、その組織・運動についても、具体的な実践が重ねられてきました。 とくに、日産厚木、NKK(鉄と船)、池貝、雪印、小田急、山武、東電、千代田化工など神奈川の大企業「連合職場」における争議勝利解決の重要な教訓の一つとして、それぞれの支援共闘会議が「支援共闘のあり方」についても深い総括を行ってきています。
 いま問題とされている日立争議についても「支援共闘会議」の運動と組織について、一部の労働組合幹部のなかから「批判」(これらの批判は、結果的にこれまで神奈川の自覚的・階級的な労働組合が勝ちとってきた反合権利闘争の水準・成果を自ら否定するものになっているのですが・・)が行われています。
 日立神奈川支援共闘会議にたいする批判の大要は以下のとおりです。
 一都三県でたたかわれた日立争議において、なぜ神奈川が一緒に解決しなかったのか、それは、「『支援共闘会議』を唯一、絶対の争議指導機関とする誤った『方針』を押し付けることが不団結を作り出した要因です。闘争の重要な段階でも支援共闘会議の総会をひらかず、限られた人たちで指導するという非民主的な運営が不団結を拡大しました。原告団の一致した意見についても支援共闘会議の方針を優先し、原告団の反対者を排除するということが行われてきました。」「さらに、神奈川の反「合」権利闘争を過信し思い上がった個人指導の『支援共闘』方式や争議運動を絶対化し、ナショナルセンターとしての全労連の役割を否定し、東京・愛知・茨城の労連や労働運動、民主勢力などとの連携を否定するという態度をとりました。全労連や東京労連などとの対立をあおり、労働運動に亀裂をもたらそうとしました。さらに、神奈川労連内の単産・組合、地域組織に不団結を持ち込もうとしています。」(2003年3月1日の神奈川労連第8回幹事会文書)と日立闘争神奈川支援共闘会議や日立神奈川争議団を口を極めて批判しています。
 上記「批判」の論点は、支援共闘会議の「非民主的な運営」とその中心を担ってきた幹部をふくめ、日立闘争神奈川支援共闘会議の組織と運動のあり方にあります。
 しかし「批判」は、日立神奈川争議団を脱退した宮崎氏の個人文書にもとづくのみで、具体的な事実と検証を抜きにし、断定的な判断をした点で誤りであり、県内反合権利闘争をともにたたかってきた仲間にたいする配慮もなく正当な批判からも逸脱しています。
 「批判」は、神奈川の大企業争議の担い手となり輝かしい勝利解決を勝ちとってきたそれぞれの「支援共闘会議」の総括とその評価に、直接かかわる重大かつ見過ごすことの出来ない内容になっています。
 なぜならこうした「批判」は、争議の運動と解決に責任をおう支援共闘会議の「組織のあり方」とこれをささえてきた活動家=幹部に乱暴な批判を加えているからです。
 そのために「批判」は、前述の宮崎氏の個人文書の「(3)神奈川支援共闘幹部による『神奈川方式』の絶対化と分派的指導」のなかで「この問題は日立神奈川争議団の問題にとどまらず、神奈川争議団共闘会議の一部にある支援共闘万能論に問題のおおもとがある」として日立神奈川支援共闘会議代表委員の「支援共闘は、その争議の運動と解決に責任をおう部隊」との発言をその根拠にしているのです。
 私たち日立神奈川支援共闘会議は、「支援共闘を唯一、絶対化する」という方針を持っていませんし、持ったこともありません。ただ私たちは、「争議の運動と解決に責任をおう」ことを明らかにし、争議団と一体になって全面解決にむけて全力を上げてきたにすぎません。このことをとらえて「唯一、絶対」などとねじ曲げて批判しているのです。
 私たちは、日立神奈川争議の勝利解決の要因として、原告=争議団の奮闘とともに、支援共闘会議の役割と運動が決定的に重要だったと考えています。そして支援共闘会議が、これまでの神奈川の反合権利闘争の到達点を正しく受け継いできたからこそ、今日の到達点があると確信しています。
 こうしたことから、まず神奈川における大企業争議の「支援共闘会議」の到達点を、それぞれの個別争議の総括でどのように評価しているかが大切になっています。そこには、争議団とともに運動と解決に責任をおうそれぞれの支援共闘会議とその活動家=幹部の重要な役割が浮き彫りにされています。
(2)神奈川の大企業争議「支援共闘会議」が明らかにしたもの

 神奈川の反「合」権利闘争は、自覚的な労働組合の奮闘のもとに多くの成果を勝ちとってきました。とくに80年代以降「反動攻勢」がつよまるなかで、県内反「合」権利闘争は大企業職場の争議支援のたたかいにおいて、運動・解決水準など全国的にも高い評価をうける到達点をつくりだしてきました。こうした到達点は、争議団、労働組合、弁護団、民主団体など多くのたたかう勢力の「共闘」のなかで生み出されたものです。同時に争議「支援共闘会議」に参加した多くの支援団体・幹部の献身的な奮闘により、その運動・組織についてそれぞれの支援共闘会議と争議団は,争議の性格・運動の違いをこえて多くの教訓と貴重な「財産」を蓄積しています。そして、「支援共闘会議」が「運動と解決に責任を負う」との特別な役割と支援共闘における「幹部」の役割を、たたかいの到達点として明確にしてきているのです。
 こうしたなかで支援共闘のあり方と活動家=幹部の役割について、その問題の建設的な論議のために、これまでの幾多の大企業争議「支援共闘会議」のたたかいの教訓・総括をあきらかにすることは、「批判」への反論にとどまらず今後の反「合」権利闘争のいっそうの前進のためにとくに重要になっています。
《日産厚木除名・解雇争議の場合》
「争議の全面勝利を勝ち取るためには、彼ら(注/日産資本と日産労組のこと)を社会的に包囲孤立させるための運動と体制を、早期に確立する必要がありました。運動の母体となる支援共闘会議を一日も早く結成し、反撃体制を確立することが争議の全面勝利にとって決定的条件でした。」
 「支援共闘会議は、①日産労使を社会的に包囲し、孤立させる世論の結集 ②労働強化、暴力的な職場支配に反対する職場労働者との連帯 ③日産労使の不当な除名と解雇を法的に断罪する裁判闘争の勝利、という課題と方針を明らかにし活動に取り組みました。」(同総括集「歩み来し道」57頁より)
こうしたなかで、1987年10月より、会社・労組とそれぞれ24回の自主交渉が行われ全面勝利解決を勝ち取ることが出来たのです。この自主交渉には、争議団とともに支援共闘事務局長が出席し、支援共闘として解決に責任を負うことを明確にしたのです。支援共闘事務局長は、民間中小職場に在籍しながら単産幹部の役職を担いその重責を果たしました。
《池貝鉄工指名解雇争議の場合》
その総括集「池貝闘争全面勝利の教訓」は、勝利の要因として、被解雇者団一人一人の不退転の決意と家族を含めた団結、大きくて優れた弁護団の献身的な活動などとともに『信頼できる熟達した支援共闘会議と被解雇者団の指導体制」(総括集16頁)を指摘し、「池貝支援共闘会議は、池貝対策会議、支援共闘準備会、を経て解雇後8ケ月後の84年2月に全国の278団体の加盟を得て、文字どうり闘いの指導部として、的確な方針を打ち出し、闘いの先頭に立ち勝利の原動力となりました。支援共闘会議の最初の仕事は、解雇一周年の全国総行動でありました。この行動の成功によってその後の池貝闘争の攻めの基本を形づくるものとなり、敵を包囲する体制と同時に、全国での池貝支援の体制を作り上げることになりました。」(総括集18頁)と支援共闘会議の結成が「勝利の原動力」になったことを明らかにしています。
 また和解と平行し行われた「トップ交渉」について「支援共闘会議、弁護団、被解雇者団から選ばれた9名の交渉団(注/支援共闘4、弁護団2、被解雇者団3の構成)の的確な活躍、なかでも中里議長と岡田弁護士対大山社長と高井弁護人との「団体交渉」によって煮詰められたものであります。再建屋として名高く、この種の交渉には今まで姿を見せなかった大山社長が"支援共闘会議議長"を相手にテーブルについたこと、「一切責任はない」といい続けた興銀がトップ交渉の仲介に乗り出したことなどに私たちの攻勢の成果が示されています。」(総括集14頁)と、支援共闘会議が運動だけでなく「解決」において大きな役割を果たしたことを明らかにしています。またその中心に、金属戦線の反「合理化」闘争の経験を蓄積し、その後の全日本金属情報機器労働組合結成に参加した主要幹部が座り、大きな役割を果たしたことはいうまでもありません。
《小田急差別争議の場合》
 争議16年目にして支援共闘会議を結成、それ以後4年6ケ月で勝利解決した小田急争議では、「決定的な役割を果たした支援共闘会議」との見出しをつけて次のように総括しています。
 「支援共闘会議が結成されると、ただちに、支援共闘会議と弁護団、争議団は、争議勝利解決に向けた方針の確立と行動の提起をおこない、それまでの部分的単発的な運動を脱皮し、小田急資本に対する全面的で大規模でち密な反撃・反攻作戦展開してきました。」
 「以後、全面勝利を手にするまで4年6カ月を費やすことになりましたが、この4年半の運動の量、争議支援の広がりのスピードは、それまでの16年間と比べようもないものでした。」
 「もちろん、それまでの長期間にわたる、ねばり強い争議団や『差別をなくす会』の運動や、新宿地域の闘いの蓄積もあり、それを土台として全面勝利解決に向けた闘いの構築がなされていたことは間違いありません。」
 「そうしたことを踏まえても、本争議の勝利解決は、支援共闘会議の結成とその後の闘いが決定的なものであり、踏み込んだ言い方をすれば、この支援共闘会議の存在なくして今回の勝利解決はありえなかったといえます。」(いずれも同総括集「遙かなる山脈を越えて」17頁から18頁)とし、支援共闘会議が運動と勝利解決に決定的な役割を果たしたとしています。支援共闘会議議長として前記日産厚木争議支援共闘中村事務局長、また同事務局長に日産厚木争議団亀山事務局長が就くなど、大企業相手の争議経験者が大きな役割を果たしたことは間違いありません。
《日本鋼管鶴見造船所差別争議の場合》
 日本鋼管鶴造・賃金等差別をなくす会総括集「新たな闘いへ」は、支援共闘会議について次のように総括しています。
 「鶴造争議発足以来7年目にして、鉄・船差別争議の統一した支援共闘会議の発足にいたった。これは争議の大きな転機になった。一つは、大集会の成功、要請行動、連続的な抗議行動、定期的な宣伝行動など支援共闘会議の指導と点検なしに遂行出来なかったと思う」
 「二つは、・・・略・・・情勢と課題との関係が整理され、われわれ当事者に"争議が見えてきた"ことである。終盤での連続した中労委攻めは、会社の解決の決断を早めたものと思われる。・・・略・・・何よりも、支援共闘会議はわれわれに『運動』を教えてくれた。それは、われわれ職場活動家にとって何よりもの財産になった。そして、和解に向けての自主交渉に支援共闘会議の三瀬勝司事務局長を入れることを会社側に認めさせる力ともなったし、それは解決内容を引き上げるうえで大きな力となったのである。」(総括集22頁から23頁)とし、支援共闘結成が運動と解決に大きな力になったことを明確にしています。
 また平行してたたかわれた日本鋼管人権裁判争議は、同松島千恵子解雇争議の勝利解決後の86年、日本鋼管鶴造賃金差別争議と共同の支援共闘が結成され、議長に石川金属反合闘争委員会委員長、事務局長に三瀬神奈川職自連代表が就任し、2年余の闘いで勝利解決を勝ちとっています。
 ここでも支援共闘の結成と幹部の結集が争議解決の大きな要因になりました。
《東京電力差別争議の場合》
 18年余のたたかいで思想差別争議において画期的な勝利解決をおさめた東電争議はその総括(「闘ってこそ自由」東電神奈川総括集)のなかで「支援共闘組織の形態について」次のことを明からにしています。
 「中央の支援共闘会議の組織形態については、二つの考え方が出されました。」
 一つは「日本経済のリーダーカパニーである東京電力との闘いで局面を有利に打開するためには、ナショナルセンターや中央単産を結集した、強力な指導・命令権をもった『中央支援共闘会議』とし、議長制でなければ」というものでした。
 「もう一つは、東電闘争は分散提訴方式をとり、一都六県の原告所在の地域運動を中心に発展させ、その力を東京電力本店に集中する闘争形態を取っている。したがって東電闘争全体の運動と解決に責任をもつ組織として、『支援共闘中央連絡会議』をつくり、各都県の支援共闘会議がそれに加わり、代表委員制を」というものでした。
 「このような論議をへて、闘う組織の中心として『争議の解決と運動に責任をもつ』支援共闘中央連絡会議が1991年5月に結成され、統一的な運動を大きな規模で展開される状況になりました。」(総括集39頁から40頁)としています。
 支援共闘組織の形態について、意見が二分されたとはいえ両者とも争議勝利にむけて実質的に運動と解決に責任を負うことを当然の前提にしていたことは明白であリました。
これにつづいて「総括集」は、支援共闘中央連絡会議とそれに参加する一都六県の支援共闘会議との関係について
 「組織問題では、各都県の運動の歴史が違うことを理解しながら、対等平等の関係であることを確認し、地域からの運動を強化しながら、粘り強く草の根からの運動を構築してきました。ネームバリュウーのある人を議長に据えれば、リーダーカンパニーである東京電力を相手にするにふさわしい支援共闘になり、闘いは前進するという安易な考え方ではなく、各地方に根ざした運動でたたかうことを基本にしてきました。」(総括集40頁)と複数・他県にまたがる支援共闘会議の「組織のあり方」に貴重な教訓を明らかにしています。
《千代田化工解雇・差別争議の場合》
 千代田化工争議では、先行した越智解雇事件をめぐり89年2月「越智解雇撤回闘争支援共闘会議」が結成されていました。しかし「越智氏が緊急命令により職場復帰した後、差別是正のたたかいを中心として、全面解決をめざすための本格的な闘いが求められた96年1月の第6回総会で、議長制として責任体制を明確にし、事務局も解決をめざす闘争の中心となるにふさわしい体制に強化して、名称も『千代田化工争議支援共闘会議』に変更しました。これは、この間のたたかいのなかで原告団の成長もあり、名実共に運動と解決に責任をもつ体制に発展させることができたものといえます。このことがその後、96年元旦決起集会の成功を皮切りに、全面解決を視野に入れた運動を規模の点でも質でも大きく飛躍させ、その原則的な運動を背景に支援共闘が会社との間の自主交渉を追求した結果、原則を貫く全面解決をかちとることができました。」(総括集52頁)とし、これまでの支援共闘会議から「運動と解決に責任をもつ」支援共闘会議へ発展させることによって「全面解決をかちとった」ことが明らかにされています。幹部の配置についても、それまでの東電闘争などの経験をいかし、反合権利闘争を蓄積した多くの幹部が支援共闘の中心をにない、画期的な勝利解決を勝ちとることが出来ました。
 以上のように大企業争議「支援共闘会議」は多くの重要な教訓を明らかにしています。
 それは、争議という限定された課題において「支援共闘会議」と幹部の、争議団と一体になった献身的・犠牲的な奮闘・苦闘により自ら情勢をつくりあげてきた実践が明らかにされています。 2001年5月9日神奈川労連幹事会において一部幹部は、「神奈川労連の争議に対する基本的態度と『日立支援共闘』の問題」との文書のなかで、支援共闘会議について「(5)これまで争議支援の教訓から、主体はあくまで闘っている争議団(組合)です。単産所属の争議の場合は単産が担い、単産がない争議の場合は支援組織を結成して指導援助することになります。しかしその場合でも要求、運動、支援組織のつくりかたはあくまで原告とその職場の意志を尊重することが重要です。支援共闘会議は『争議団が納得できる要求の獲得』をめざしつつ、職場の団結が強まり闘う仲間が多数派になれるように援助することが重要」としています。
 同文書の「単産がない争議の場合は支援組織を結成」の指摘は正しくありません。単産争議においても、当該単産は支援組織を結成してたたかってきました。ところで同文書の支援共闘についての解明は一般的な指摘にとどまっています。前述した神奈川におけるそれぞれの大企業争議の支援共闘会議の実践をつうじて、全国的にも評価と注目をあつめてきた神奈川の反「合」権利闘争の歴史的経過とその具体的な成果と教訓を明らかにしていません。
 また同文書は上記の「節」において「また神奈川の争議勝利の教訓はひとり神奈川の闘った争議団の奮闘や共闘会議の指導だけによるものではありません。世界と日本の基本的人権を求める闘いが前進し民主主義の世論と体制がひろがっていること、反共主義をなくす政治と職場地域の闘いの前進、そして全労連の結成をはじめ闘う労働運動の結集と弁護団を含めた総合的力関係が作り出した成果です。」としています。私たちも、こうした争議をめぐる一般的な情勢・たたかいの到達点などの論点を否定も軽視もしてはいないのです。
 問題は、こうした情勢・たたかいの到達点をふまえて、争議というひとつの分野の「たたかいの場」でそれぞれの争議団と支援共闘会議が、勝利解決にむけ情勢・要求・運動・組織をどのように分析・たたかいを具体化し実践・総括をしてきたのかが問われているのです。そういう点でも同文書の内容は、結果として神奈川の大企業争議における「支援共闘会議」の運動・組織の具体的な歴史的到達点からも目をそらし、個別争議・支援共闘の役割と成果をねじ曲げ、結果として否定したものになっています。
(3)日立神奈川争議「支援共闘会議」が明らかにしたもの
①争議の「 運動と解決に責任をおう」支援共闘会議について
 日立神奈川支援共闘会議は、その規約において「運動と解決に責任をおう」ことを銘記し、勝利解決にむけてこのことを実践してきました。しかし神奈川労連の一部幹部は、この支援共闘の性格を「非民主的な運営」「支援共闘会議を唯一、絶対の争議指導機関」「思い上がった個人指導の支援共闘方式」など批判をしています。こうしたなかで、「運動と解決に責任を負う」支援共闘とは何か、その基本点を明らかにすることが重要になっています。
②支援共闘の「あり方」についての基本的なポイントは何か。
(イ)一つは、リアルな情勢から「支援共闘」のあり方を論議することが大切になっています。争議は、資本の攻撃の「最前線」にたたされたたたかいです。そこでは、不当な差別・解雇・権利侵害をおこなう資本との激しく・先鋭的なたたかいが日常的に展開されています。その中で私たちのたたかいは、対峙する資本からも「分析・点検・評価」をうける状況下におかれています。争議のなかで「情勢を正確に分析する」ことが強調されるのは、たたかう相手(背景資本など)を明確にすることだけでなく、その争議のたたかいの現状・到達点が、対峙する資本にどう映っているのかが問われているからでもあります。
 支援共闘組織の「あり方」についても、当然こうした視点からの接近が大切になっています。その争議の支援組織が、「味方」には勝利解決を勝ちとるにふさわしい「組織形態」になっているのか、逆に「相手」にはその支援組織が争議団全体をまとめあげ解決当事者にふさわしい組織なのかが問われるのです。
 争議の解決交渉をはじめるにあたって当該資本は「あなた方(支援共闘のこと)で責任をもって争議団をまとめ解決することが出来るのか」、このことの確認をストレートに求めてきます。こうしたことを確認しながら資本は、争議団と支援共闘との分断をはかろうともします。解決要求書の提出当事者を「争議団と支援共闘会議」の連名にするのは、このことへの断固たる意思表示でもあります。
 とくに連合傘下の大企業争議では、当該争議団に責任をおう労働組合が対応していないこともあり、この点での対応は解決交渉をはじめるにあたって重要なポイントになります。また、争議団の不団結が表面化し解決交渉が行き詰まった状況になると、資本はみずからの解決水準への固執を棚上げにして、支援共闘に「あなた方は本当に解決に責任を負うことが出来るのか」などと攻撃をかける事例は多くの争議に共通しています。資本はその争議の解決を決断したとき、私たちに「解決に責任を負う」支援共闘(支援組織)を求め、私たちに争議解決を求めてくるのです。私たちが強調する「運動と解決に責任を負う」支援共闘の大きな要因のひとつはここにあります。
 ちなみに、95年12月25日に調印した東電争議の解決協定書の前文には「東京電力に勤務する従業員165名が会社に対して思想信条を理由とした賃金差別にもとづく損害賠償を求めて係争してきた訴訟については、5つの地方裁判所の判決及び東京高等裁判所第9民事部の和解勧告を経て原告団の事件解決に責任を持つ東京電力差別撤廃闘争支援共闘中央連絡会議と会社との間で、全ての訴訟の全面解決のため、誠実に交渉が行われた」として、支援共闘を「事件解決に責任を持つ」当事者として、東京電力はその役割を明確にしています。
 争議団が単産ないし産業別労働組合などに所属する争議組合の場合、このことはより明確になります。その上部組織は「争議の運動と解決に責任を負う」ことを明確にし、これをその支援共闘組織が確認しているから、資本は解決にあたり「支援共闘」を正面からその当事者として受け入れることになるのです。そうした点で、「運動と解決に責任を負う」支援共闘は、労働組合運動・産別組織の指導体制から見るならば一般的と言えます。
(ロ)「運動と解決に責任をもつ」支援共闘がリアルな情勢のなかで実践的に検証されてきた具体的な到達点であり、また労働組合運動の現実からみて「争議の解決と責任を負う」ことが一般的だとすれば、日立神奈川支援共闘会議の「運動と解決に責任を負う」ことへの批判は、その根拠がほとんどなくなります。
 残された問題は、日立神奈川支援共闘会議にあるとする「支援共闘による争議団の引き回し」や支援共闘会議の「民主的運営」(その論点は、日立神奈川支援共闘会議において結成以来総会が開催されていないことや、神奈川労連からの代表委員選出の拒否、そして宮崎氏の個人文書からの「引用」)とかに絞られてくることになります。
 こうした批判には、事実経過にもとづく別途具体的な「反論」が行われていますので繰り返しません。
(ハ)「民主的な運営」については、別の角度から分析してみることも重要です。全労連の参加する一都二県の「日立争議支援中央連絡会議」(以下、中央支援連とする)の組織運営はどうだったのでしょうか。以下2001年12月の「日立争議総括集」(以下、総括集)から、その実態と問題点が浮かび上がっています。
・総括集85頁右段に「中央支援連の会議は非常に民主的に運営された。意見が真っ向から対立したこともままあったが、徹底した論議の中で意思統一を勝ち取った。共同要求団員も支援連幹部に臆することなく意見を述べ、時には幹部の心証を害したことも少なくなかったが、共同要求団の発言の多くは当該の意見として尊重された。」としています。
・しかし同じ頁の左段では「短時間で結成したために、中央支援連として日立争議の全面解決勝利を求めた共同要求の事前討議ができず、各支援組織との間でそごを来した」「とりわけ提訴外の要求は、ほとんどの支援組織の代表者が初めて耳にすることであり、委任状の取り扱いについては紛糾した。たとえ時間がなかったにせよ、要求についての支援者との事前討議がなかったことは、大いに反省すべき点であった」としています。
中央支援連において、たたかいの基本である解決要求と争議支援のあり方にも直結する「提訴外の要求」の「事前討議」をまったく行わなかったことを明らかにしているのです。99年3月16日中労委に解決要求提出後、中央支援連が結成された事情のなかで支援組織の「民主的運営」は吹き飛んでしまったのです。
・たたかいの基本である「解決要求」の討議について、当該争議団と中央支援連の「そご」はこれだけにとどまりません。「そご」は、上記要求提出後「修正した要求書」(99年9月11日提出)においても繰り返されたのです。
総括集84頁左段には「このように要求書が2回も修正を繰り返したことは、強く反省が求められるところである。要求は合理的で客観的に説得性のあるものにし、支援組織も含めた十分な事前検討がなされなければならなかった」との指摘があります。たたかいの基本のひとつである「解決要求」づくりについて2度までも、当該争議団と支援組織の事前討議が不十分であったことを明らかにしています。
・それだけではありません。当該争議団員の意向がもっとも尊重されなければいけない最終回答の判断とその受諾の可否について重大な問題があったことが明らかにされています。
総括集88頁右段には「また、争議の最終盤で団結がもっとも大事な時期にあることを考慮し、個別回答を当面各人には開示しないことにしたが、共同要求団役員会が責任を持つことで、7月に入って各人に開示した」こと、 そのために「労側は6月22日の第30回交渉で、個別回答の最終的な受け入れを表明した」(総括集88頁右段)としているのです。
個々の争議団員の格付けについて一切明らかにしないで会社に受け入れを表明しているのです。それも「争議の最終版で団結がもっとも大事な時期」との理由で、団員の民主的権利が奪われているのです。中央支援連の「民主的運営」が何であったのか、その実態が露呈しています。
③日立神奈川争議の重大な教訓は・・・その1
 前記(2)において明らかにした神奈川の大企業争議の総括は、それぞれ個別の支援共闘が組織され、全国闘争を展開して、全労連結成前後の80年代から90年代に画期的な勝利解決をはたしてきたことを明らかにしています。
 そこには、全労連が支援共闘の中心にすわった事例はありません。それぞれの支援共闘は自主的に組織され、独立した支援共闘組織として全労連に支援を要請し、これをうけた全労連は全国に支援を呼びかけ、全国的闘争を行ってきたのがその歴史的経過です。上記神奈川の争議総括では、階級的労働組合運動をめざす統一労組懇とナショナルセンター全労連の全国的な組織と運動をとおした支援活動が、その勝利解決に重要な役割を果たしたことをリアルに総括しています。
 一般的に争議は、その当事者の現場組織のたたかいから始まり、産業別闘争・地域闘争として支援組織・支援共闘が組織されます。そしてその運動の度合いによって、ローカルセンター規模・ナショナルセンター規模への運動として発展・拡大します。したがってローカルセンター・ナショナルセンターの支援共闘組織への参加を要請するかの選択は、当該支援共闘と争議団の判断に委ねられています。
 本来ナショナルセンターの重要な機能のとして、産業別組織・地域労働組合組織の要求を全国的・産業別に統一し調整すること、また困難な条件のもとで不当解雇・差別などとたたかっている争議団に、全国的な連帯・支援の行動を組織することが明らかにされています。
 神奈川の大企業争議の総括は、こうしたナショナルセンター・ローカルセンターのもつ機能(組織と運動の両面をもつ)が原則的に実践されてきたことを明らかにしています。 日立闘争神奈川支援共闘会議・争議団は、こうした神奈川の権利闘争の歴史的教訓に学びながら、全日立争議の統一にむけて、全労連との間で支援共闘問題での協議を重ねるなど努力してきました。その結果全労連は、当初「当該全員から頼まれない限り、全労連は引き受けない」「全労連は当該がまとまって要請されれば引き受けるという立場」との原則的な考えを明らかにし、対応してきました。
 しかし全労連は、こうした経緯を無視し99年3月一都二県の日立争議支援中央連絡会議が結成されるとこれに参加したのです。結果として全労連は、日立神奈川を排除して一都二県の中央支援連を立ち上げ統一を放棄したのです。このことは、ナショナルセンターとしての「調整機能」を自ら放棄するだけでなく、当該争議団の団結に取り返しのつかない事態を生むことにつながりました。
 こうしたなかで神奈川労連は、別項のたたかいの経過のなかで詳しく明らかにされているように、日立闘争神奈川支援共闘会議・争議団を排除した全労連の一方の側にたった立場から、日立闘争神奈川支援共闘会議・争議団を「統一」の阻害者として批判・攻撃をする深刻な事態を招いたのです。日立争議の重大な教訓の一つがここにあります。
④日立神奈川争議の重大な教訓は・・・その2
(イ)なぜ、全労連がこのような不団結の発端となるような「誤り」に陥ったのでしょうか。私たち日立闘争神奈川支援共闘会議及び争議団は2000年10月4日付の「見解」において次のことを明らかにしています。
 「そもそも一都三県が分断された出発点となったのは、99年1月16日、まだ一都三県の原告団内で『争議情勢の見方』『中央支援共闘のあり方』『会社とのチャンネル問題』『神奈川支援共闘役員への誹謗中傷問題』『訴外者の問題』などをめぐって議論が続いているなかで、一都二県の支援組織が、神奈川支援共闘を除いて中央連絡会結成の方針を決めたことにあります。」
 「争議情勢の見方」では、一都二県は「今が解決の絶好のチャンス」と主張したのに対し、神奈川は鉄の門を固く閉ざし「(反共のための)消防団」まで配置して対峙する日立の姿勢をあまくみないで「運動で情勢を切り開くこと」を主張していました。
 また「中央支援共闘のあり方」では、一都二県は「全労連を中心にした組織」を主張したのに対し、神奈川は「それぞれの地域支援共闘が対等平等になった組織」を主張して対立していました。
 更に「会社とのチャンネル問題」では、一都二県側が日立との間にあるらしいチャンネルを秘密にして、そのチャンネルで話し合われたらしい結論を神奈川に押しつける問題があり、そのチャンネルを明らかにするよう求めていました。
 当時私たちは、一都二県がなぜそんなにも「今が解決の絶好のチャンス」とか「全労連中心」に固執したり、「会社とのチャンネル」を隠すのか理解できませんでした。
(ロ)しかし今日、日立資本が全労連に直接働きかけてきた事実が明らかにされ、日立問題の矛盾、不団結の根本的原因が明らかになってきたのです。
一都二県の中央支援連側は、総括集(01年12月発行)の中で次のように記載して、日立資本が全労連側に働きかけたことを示唆していました。
「中研先行解決を強く主張していた会社が、99年1月、突然、嶋田一夫中労委労働者委員を通じて、『争議の早期全面解決をはかりたい』との意思を伝えてきた。この背景については、全労連に一括解決の窓口を期待したのではないか(アンダーライン追記)、相次ぐ不祥事と業績の急激な悪化があるのではないか、争議支援活動の拡がりと国内外の世論の高まりを恐れたのではないか、新たな「合理化」の前ぶれではないかなど、さまざまな見方があったが、日立争議団にとってはまさに早期全面一括解決の絶好のチャンス到来であった。」 としています。
 この総括集では、日立が全労連に働きかけたことを断定はしていませんでしたが、労働運動誌03年7月号の座談会では、日本福祉大の大木氏が次のように述べて全労連が日立資本と直接交渉を行ったことを認め、これを初めてのこととして評価したのです。
「大木 (中略)日立争議の勝利解決をかちとるうえで全労連は決定的な役割を果たしましたが、その経過をみると、日立という日本の代表的な企業が連合組合を飛び越えて、全労連に和解交渉の仲介を依頼し(アンダーライン追記)、全労連および『争議団』との間で長期にわたる事実上の団体交渉を行い、裁判所や労働委員会の認知のもとに公式に協定を結んだのです。これは画期的な出来事で、全労連は大企業との間でも団体交渉や協約締結をするようなたたかいを組織しうるところまできていることを示しています。(後略)」 以上の発言は、一都二県がなぜ「今が解決のチャンス」とか「全労連中心」に固執し、そのルーツになっていた「会社とのチャンネル」問題の実態を明らかにしているのです。
  こうした角度から2000年当時、全労連が大企業とのたたかいについて、どのような基本構想をもっていたかを知る記述として月刊全労連2000年6月号の座談会における坂内事務局長の興味深い発言があります。
「坂内 全労連として拠点闘争を提起して、その典型に日産のリバイバルプランとのたたかいを提起した。(中略)これを単に単発的なとりくみにしないで、もちろんいろんな産業でいろんなたたかいがあるから、やはり重点を絞って、全労働者が集中して突破していくようなたたかいというものは、これからも非常に大事ではないかと思います。1ヶ月ほど前に、ある大企業の経営者側と会ったんですが、『日産の次はうちを拠点にするんじゃないでしょうね』(アンダーライン追記)と言うんだよね。(後略)」  「ある大企業」の相手はさだかではありませんが、全労連として日産の次に「ある大企業」をその拠点闘争としてその対象にしていたことは明らかです。
 しかし、2000年春闘の総括をめぐる座談会であことから、ある大企業の経営者と会った時期は、2000年春闘中であると考えられます。
 くしくも一都二県をめぐる中労委和解は、2000年1月28日の和解交渉において会社の全体解決の枠組みが提示され、これをうけて同年3月27日の和解交渉において労側の是正水準の譲歩案が提示され、解決につながる同年5月2日の中労委裁定をひかえるなど緊迫・重大な状況下にありました。
 日立争議において、「今が争議解決のチャンス」とか「全労連中心」を声高に固執した一都二県の支援共闘・争議団の背景に、全労連の大企業闘争と日立資本との関係があったことは経過的にも明確になったのではないでしょうか。

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