――日立神奈川争議第二次総括集より――
大企業日立と闘い、様々な困難を乗り越えてつかんだ歴史的勝利
1.大企業を追いつめてきた労働者の闘い
神奈川県には、独占大企業の生産現場が集中して存在することから、労働者の闘いと資本の攻撃が真っ向からぶつかりあっていました。
そのような中で、労働者の権利を守って闘うべきである労働組合も右傾化を強めていき、労働者は差別、解雇、人権侵害をやめさせるために裁判闘争を余儀なくされました。
70年代には、日本鋼管、日産厚木、小田急、東電などの労働者が裁判闘争に立ち上がりました。
77年には県下の地域争議団が統一し、神奈川争議団共闘会議を結成。企業内の殻を被り、地域の仲間や自覚的労働組合とともに共同行動を追求し運動を発展させました。
右傾化を強める労働組合に対し、神奈川では早くから自覚的労働組合の労組連運動が展開されていましたが、この時期、全国的にも労働組合のあり方を考える運動が前進していきます。
89年11月には、全労連が結成され、翌90年1月には神奈川労連が結成されました。
神奈川争議団は、個別争議団を束ねながら、神奈川労連の発展に寄与するとの方針を掲げ、協力共同の闘いを大きく広げました。県下各地の地域労連と相談しながらの、全駅頭宣伝や地域への大量宣伝行動を繰り返し、地域から大企業を包囲する運動を展開しました。神奈川労連が中心となった神奈川稔行動には、労働組合や様々な民主団体が自らの要求を持ち寄り、大企業や行政に要求実現を迫り、大きく運動を飛躍させました。労働組合だけの殻を打ち破り、神奈川の「総行動・‥地域から大企業を包囲する運動」は、今後の労働運動のあり方を示唆するものとして全国的にも注目されていました。
こうした運動を背景にしながら、小田急、雪印、山武、NKK、東電、千代田化工など争議が次々と解決をしていきました。
2.神奈川の反合権利闘争の教訓に学んで
日立神奈川争議団と支援共闘会議は、こうした歴史的教訓に学びながら、徹底した討議と実践を重ねてきました。
各事業所での職場の闘いは、労働者への支持と共感を広げ、法廷での闘いは、溢れる傍聴者の中で地労委全面勝利命令を勝ち取りました。
社会的包囲の闘いでは、数次にわたる県内主要60駅頭での宣伝行動や、100名を超える規模での連鎖事業所要請を繰り返し、各地域で宣伝カーを走らせながらの全戸配布ビラ宣伝を行ってきました。(戸塚地域では300人の人が集まり一気に6万枚のビラを配布)
また、地域の人たちと共同しての自治体要請も繰り返し行われました。
3.闘いの中で起きた闘う部隊の弱点
運動が飛躍し、大企業を追いつめていく反面で、私たち闘う部隊の中にも様々な弱点が露呈し始めました。
(1)神奈川に主導権を取らせないとする東京の動き
東京の労働組合幹部の中には、東京が運動の中心であると言う自負がありましたが、90年代の相次ぐ大型争議の解決の多くが神奈川にリードされて解決していき、特に東電闘争でそれが決定的になりました。実践的な運動の発展実績からも、中央支援組織や交渉団の中心は神奈川が担いましたが、これを不服として、日立争議の時に様々な攻撃が神奈川にかけられました。
それらの多くは、「電力会館の中にはⅠさんの胸像が飾ってある」というような根も葉もない話でしたが、事実を知らない人の中にはまともに入っていってしまう陰湿なものでした。
(2)運動を分断させてまでも主導権を得ようとした全労連
1都3県の争議を束ねての中央支援共闘会議を作る論議をしている際に、全労連で日立争議を担当していた鴨川副議長(当時)は、「全労連は、当該の全員から頼まれない限り、支援共闘の代表を引き受けない」と表明(98年5月20日)し、神奈川を訪れた全労連熊谷副議長(当時)も「形だけの交渉団を作ってもバラバラではしようがない。当該がまとまって要請されれば支援共闘代表を受ける立場」だと表明(98年8月5日)しました。「団内部に、不一致・不団結」がある場合、その一方にナショナルセンターが加担してはならないという、きわめて当然のことと言えます。
しかし、99年に入り、1都2県は神奈川を排除し、神奈川が不参加のままに会議を開催して、先行解決を決定し、全労連も入った中央連絡会を結成しました。
神奈川労連も、これを受けて、「是々非々支援」と言いだし、日立神奈川争議団と神奈川支援共闘の提起する運動を事実上は支援しなくなりました。
当時は、運動を分断させてまでなぜ、全労連が中央組織の代表に固執するのかが理解できませんでしたが、その後の数々の資料から、日立資本が全労連に対し解決の仲介を頼んだことが明らかになりました。
1都2県の中央支援連の総括集(01年11月発行)では、「中研先行解決を強く主張していた会社が、99年1月、突然、嶋田一夫中労委労働者委員を通じて、『争議の全面解決をはかりたい』との意思を伝えてきた。この背景については、全労連に一括解決の窓口を期待したのではないか・・・さまざまな見方があったが、日立争議団にとってはまさに早期全面一括解決の絶好のチャンス到来であった。」と書かれています。
当時、鉄の門を堅く閉めて要請に応じない会社に対し、神奈川が「運動で情勢を切り開こう」と主張しても、「解決の絶好のチャンス」としか、1都2県は答えませんでしたが、争議解決実績を多く持っている神奈川には、会社の動きを伝えずに全労連が密かに争議解決の実績を作ろうとしていたのであれば、神奈川排除を策動した全労連の行動に説明がつきます。
また、「労働運動」誌03年7月号の座談会では、日本福祉大の大木一訓教授が「日立という日本の代表的な企業が連合組合を飛び越えて、全労連に和解交渉の伸介を依頼し、全労連および『争議団』との間で長期にわたる事実上の団体交渉を行い・・・公式に協定を結んだ」と、日立が全労連に和解交渉の仲介を依頼したことを初めて明らかにしました。 大木教授の後には座談会で全労連熊谷議長(当時)が発言していますが特に異議は述べていません。当時、1都2県が「会社とのチャンネル」で話し合われたらしい結論を神奈川に押しつけるようなことがあり、「会社とのチャンネル」などのすべてを明らかにしないことが大きな問題になっていましたが、それを隠したまま、99年1月16日、神奈川を切り捨てて中央連絡会(準備会)結成の方針を決めその代表を全労連が引き受けてしまいました。
こうした動きに神奈川の原告団と支援共闘会議は批判を行い、日立争議全体の団結を求めましたが、全労連と神奈川労連からの回答は、「団結案」を持って来いとのことでした。 この求め(99年3月、4月)に応じて、神奈川の団と支援共闘は「団結の回復に向けて」の提案を文書で提案しましたが、それを求めた全労連の西川副議長(当時)は、その説明を聞くことすら拒否し(99年8月26日)、1都2県の争議団も「無条件で中央連絡会(準備会)に入ってくるしかない」と団結案を拒否しました。
1都2県争議と神奈川が統一して進む機会は数回ありましたが、大企業争議の中心に座っての実績を作りたかった全労連が、1都2県についたことにより、統一の機会はなくなりました。
相次ぐ大企業争議が神奈川中心に解決していくことに、焦りとおそれを感じた資本が、全労連の野心を見抜いた上で、日立争議を利用して全労連と神奈川の運動を分断させてきたとも考えられます。
全労連は、これに乗って、態度を豹変させ1都2県の先行解決に走ることになります。このことにより、神奈川の争議団からも、宮崎が脱落し、続いて中村が分裂行動をとるようになりました。
日立とともに闘ってきた東芝の争議でも、神奈川労連が、支援共闘会議結成準備会の場で当該が選んだ事務局長を認めず、自らが中心に座ることを主張し、結成が流れてしまうなど他の争議にも影響を与えました。
(3)大衆運動に対して不当な介入をした日本共産党
共産党員への資本の徹底した差別に対して、職場の自由と民主主義を前進させるために立ち上がった争議であるにも関わらず、日本共産党は支援しないばかりでなく、大衆運動への不当な介入と数々の妨害を行いました。
総括集①では、大衆運動の場で引き起こされた問題として、①日本共産党北東地区委員会の印刷機使用拒否問題 ②三権分立の立場から裁判所への要請文には署名できないとした問題 ③西南地区委員会の宣伝カー貸し出し拒否問題 ④争議解決報告集会への参加拒否及び「参加は適切ではない」と妨害した問題 ⑤分裂を画策し脱落した宮崎の集会に県央地区委員長が名を連ねた問題を指摘し、これらの事実関係を明らかにしました。
かつて、東電争議において、終盤の解決直前になった時に、日本共産党の志位書記局長(当時)が東電本社への申し入れを支援共闘会議と原告団に何の相談もなく実行してしまったことがあり、その時に原告団と支援共闘会議が、解決間近の時に、当事者に断りなしに勝手に動いては困ると伝えたのですが、「政党が独自の判断で動くのだから支援共闘に断る必要はない」ということでした。
党の権威を優先させ、党の方針に従うのは当然とする考えがこの時に示されました。
(4)神奈川労連と日本共産党神奈川県委員会が一体となって不当な介入
今まで述べてきたようなことから、日本共産党と全労連が、全労連の方針にも従わず、党の権威にも影響されない支援共闘の力をこれ以上に強めることは不本意であったことは容易に想像がつきます。
1都2県の解決後も党と神奈川労連は、一体となって不当な介入をしてきました。
①大企業の横暴を規制する連絡会をめぐる問題
日立争議の大量宣伝を実施していく中で、社会問題となっているリストラなど大企業の横暴問題も一緒に地域に訴えていくことにした支援共闘会議は、連合職場連絡会や神奈川争議団などと一緒に「大企業の横暴を規制する連絡会」を結成する準備をし、神奈川労連にも呼びかけをして参加してもらうことにしていました。
1999年2月14日、神奈川労連との話し合いでは、高橋議長、菊谷事務局長も参加をし、「予定どおり2月17日に「連絡会」を結成すること、労連は機関会議での承認手続きが必要なので遅れて参加する、そのため結成時には連絡会役員を決めずに労連参加後に決めることにする」などを確認しました。
しかし、神奈川労連は、突如、2月23日の労連幹事会で労連主導の別組織を提案し、リストラ問題はそこで取り組むと言いだしました。
また、日本共産党神奈川県委員会は、連合職場連絡会や神奈川争議団、日立支援共闘会議の中心となっている党員を呼びだし、「民主的な討議を経たものではないとしながらも、県委員会の指導方針として、大企業の横暴を規制する連絡会での活動は認めない」と伝えてきました。
大企業の横暴と闘うための大衆的自主的な運動と組織を潰すために、党と神奈川労連が一体となって妨害介入をしてきたと言えます。
②分裂策動を行う日本共産党神奈川県委員会と神奈川労連の一部幹部
このような状況の中で、党神奈川県委員会事務所から出てきた宮崎、中村両氏(両名はあとで原告団を分裂離脱)が目撃され、続いて同じ方向から歩いてきた神奈川労連幹部(高橋議長と菊谷事務局長)が目撃されるなど、団の分断の背後に、党と神奈川労連があったことも明らかになりました。この日は、労連の反合対策会議が開かれていたにもかかわらず、高橋議長は中座退席して県委員会に向かったことも明らかになっています。
③経営活動者会議で議長の発言許可も制止する党幹部
また、日本共産党神奈川県委員会主催の経営支部活動者会議 では、議長の指名を受け発言のため壇上に上がろうとする団員の小島氏を、議長が指名したにもかかわらず党幹部(野口労働部長)が制止し、発言を認めさせないとしたことなどもありました。
(5)弁護士の権威を押しつけるための巻き返し
次々と解決していく大企業争議が、支援共闘会議中心に進められ解決交渉が弁護士を入れずに進んでいくことへの焦りからでしょうか、私たちの味方であったはずの自由法曹団までもが運動の妨害をし、中村裁判においては法廷での相手方として対立することになりました。
賃金差別事件が、会社の再審査申立により中労委に上がった段階では、堤弁護士以外の弁護士は辞任届を出し弁護を放棄しました。
また、男女差別事件の裁判では、会社との交渉中であることを理由に法廷を事実上とめてしまい、原告に対し岡村美穂弁護士は「料理人の脱が良くてもいい材料がなくてはおいしい料理はできない」などと弁護士としての責任を放棄するような発言もありました。
4.困難を乗り越えての歴史的な勝利
日本共産党から大衆団体への不当な介入、全労連・神奈川労連からの支援拒否とあからさまな妨害など、困難な側面を持ちながらも、日立神奈川争議は歴史的な勝利をおさめること ができました。(解決内容と1都2県との比較は総括集①にも掲載しましたがあらためて掲載しておきます)
(1)神奈川の解決内容の評価
①技能職の一次提訴者全員が指導技能員となれた。
②技能職(女性)においては男女差別裁判で訴状請求した通りの是正を勝ち取った。
③01年8月までの自主交渉で提訴者全員の昇格を勝ち取った。
④最終的に執務職は全員が総合職になった。
⑤提訴外者の8割の格付け是正を勝ち取った。
⑥中労委では中村の格付け是正の総合職8級を勝ち取った。
⑦解決金は一定の金額が取れた。(1億4000万円)
⑧退職金・年金ポイントの是正をさせた。
(2)先行解決した1都2県と神奈川の特徴
①交渉の形態として1都2県は中労委交渉で進め、解決金や退職金などの重要な局面で中労委裁定を出させ、それをもとに決めていきました。
それに対して神奈川は中労委の入らない当事者同士の話し合いによる自主交渉を主体として交渉を進め、会社から直接回答を出させました。
②1都2県は格付け交渉で、格付けが上がらない人が出ることを認めた上で、最初に昇格の枠組みを決め、原告個々人をどこに格付けるかは会社に任せました。
神奈川は全員の格付けを上げることを主張し、原告一人一人につき回答を出させ、それぞれを上げる交渉をし、全員の昇格を勝ちとりました。
③解決を決断するときは、1都2県は個々の格付けを会社に任せたため、原告に見せると混乱をきたすとし、原告それぞれには格付けを教えないまま、会社に受け入れの回答をしました。
神奈川は交渉の都度団全員に知らせ、議論しました。自主交渉の時点で全員昇格したものの不満とする人がいたため、中労委交渉に切り替え、不満だった団員の要求も勝ち取って、全員納得のうえ解決しました。(自主交渉中に中村由紀子は、内容に不服だということを団に相談なく会社に文書を送りつけ、そのことが自主交渉で会社から出され大きな問題となりました。)
(3)1都2県と比べての前進面
①自主交渉の時点(01年8月)で原告全員の昇格を勝ちとった。
1都2県は上がらない人がいた。
②事務技術系は全員執務職から総合職に昇格した。
③技能系一次原告全員指導技能員を勝ちとった。
④男女差別原告の技能職全員(2人)が訴状で請求通りの格付けを勝ちとった
(東京原告の場合は3人中1人)
⑤職務等級はいじらないで基本給を最大限あげた。1都2県は職務等級を上げた人もあり、結果、基本給の是正額が少なくなった。
⑥総合職の2人が頭切り対象だったがやめさせ、是正金額の7万円を満額勝ちとった。
⑦組合との労使協定で53才で資格給が1万円あがる事になっており、該当者4名につき6月ベースアップでこの1万円を上げさせ、その上、7月に是正金額を満額上げさせた。
⑧提訴外者の8割の格付け是正を勝ち取った。(1都2県は5割の格付け是正)
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